2019年の観劇記録

こんにちわ。

2019年も小劇場に通っています。2019年は全部で69作見ました。カウントが難しいテアトロコントなんてのもありますが、まあ、だいたいこのくらいです。

2018年よりはずいぶん減っていますが、これはちょっとお金が要りようなことが多かったためと、体力が落ちてきたせいです。休日にはソワレ・マチネ、ハシゴするのがつらくなってきました。あと、新規発掘をあまりせず、なるべくアタリがわかっている劇団を選んで見にいっていた点があります。

ひとまず、観劇した作品を一覧にしました。「☆」マークをつけたのは、月刊MVPです。

劇団 タイトル 劇場
1 パラドックス定数 トロンプルイユ
江古田のガールズ 遺作 「劇」小劇場
桃尻犬 俺ずっと光ってるボーイ、健之助
2 トリコロールケーキ&劇団「地蔵中毒」合同公演 懺悔室、充実の4LDK 浅草九劇
艶ポリス Party People 駅前劇場
チェルフィッチュ スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド シアタートラム
はえぎわ 桜のその薗〜ミワクの鳥が踊る町の山の川の果ての鈴鳴る滝で一人龍を征す〜 ザ・スズナリ
オフィスコットーネプロデュース 夜が摑む シアター711
ウンゲツィーファ さなぎ 驢馬駱駝
神里雄大/岡崎藝術座 レクチャーパフォーマンス いい加減な訪問者の報告 CASACO
シベリア少女鉄道 いつかあのアレをキメるタイム 赤坂RED/THEATER
(わっしょいハウス/劇団かもめんたる/コントはチョップリン/マッハスピード豪速球) テアトロコント vol.33 ユーロライブ
3 鳥公園のアタマの中展2 乳水 アトリエイースト
鳥公園のアタマの中展2 おねしょ沼のおわらない温かさについて アトリエイースト
小松台東 仮面 新宿眼科画廊
鳥公園のアタマの中展2 なぜ私はここにいて、彼女たちはあそこにいるのか〜からゆきさんをめぐる旅〜(レクチャーパフォーマンス) アトリエイースト
鳥公園のアタマの中展2 レクチャーパフォーマンス なぜ私はここにいて、彼女たちはあそこにいるのか〜からゆきさんをめぐる旅〜
ナカゴー特別劇場 駿足 あさくさ劇亭
あひるなんちゃら ハルサメ 駅前劇場
ベッド&メイキングス こそげ落としの明け暮れ 浅草九劇
財団、江本純子 ドレス ギャラリー・ルデコ
KUNIO 水の駅 森下スタジオ
4 中野坂上デーモンズの憂鬱(MOHE MAP) ぼくらは生れ変わった木の葉のように/稽古 新宿ゴールデン街劇場
鵺的(オフィス上の空プロデュース 6団体プロデュース「1つの部屋のいくつかの生活」) 修羅 吉祥寺シアター
かわいいコンビニ店員飯田さん(オフィス上の空プロデュース 6団体プロデュース「1つの部屋のいくつかの生活」) 我がために夜は明けぬ 吉祥寺シアター
うさぎストライプ ハイライト 駒場アゴラ劇場
オパンポン創造社 さようなら シアターKASSAI
5 ほりぶん 飛鳥山 北とぴあ ペガサスホール
MCR 死んだらさすがに愛しく思え ザ・スズナリ
電動夏子安置システム 尾を咥えたり愚者の口 駅前劇場
東京にこにこちゃん ラブ・イズ・ノット・デッド 荻窪小劇場
「現代劇作家シリーズ」第9弾 日本国憲法を上演する
劇団かもめんたる 宇宙人はクラゲが嫌い 赤坂RED/THEATER
アナログスイッチ バンブーサマー 駅前劇場
(明日のアー/ワワフラミンゴ/コントはハーパー/ザ・マミィ) テアトロコント vol.36 ユーロライブ
6 日本のラジオ カケコミウッタエ 三鷹市芸術文化センター 星のホール
演劇集団ワンダーランド 過激にして愛嬌あり 宮武外骨伝 座・高円寺
中野坂上デーモンズの憂鬱 MOHE MAP 黙読 新宿眼科画廊スペース0
serial number 機械と音楽 吉祥寺シアター
モダンスイマーズ ビューティフルワールド シアターイースト
7 江古田のガールズ 本当にあったら怖い話 紀伊國屋ホール
東葛スポーツ 78年生まれ、宮部純子 シアター1010 稽古場1
かわいいコンビニ定員飯田さん マインドファクトリー すみだパークスタジオ倉
シベリア少女鉄道 ココニイルアンドレスポンス シアターブラッツ
8 ミセスフィクションズ 月がとっても睨むから すみだパークスタジオ倉
中野坂上デーモンズの憂鬱 アイスクリームマン 〜中産階級の劇的休息〜(特殊公演 MOHE・MAP) OFF・OFFシアター
夏の日の本谷有希子 本当の旅 原宿VACANT
くによし組 2020年以降の夏 花まる学習会王子劇場
神里雄大/岡崎藝術座 バルパライソの長い坂をくだる話 ゲーテ・インスティトゥート東京メモ無し
DULL-COLORED POP 福島3部作・一挙上演 シアターイースト
(ゆうめい/ミズタニー/アイロンヘッド/かが屋) テアトロコント vol.38 ユーロライブ
サムゴーギャットモンテイプ NAGISA 巨乳ハンター/広島死闘編 シアター711
9 オフィスコットーネプロデュース さなぎの教室 駅前劇場
鵺的 悪魔を汚せ サンモールスタジオ
地蔵中毒 ずんだ or not ずんだ 高田馬場ラピネスト
カリンカ その美女、自覚なし! シアター711
10 good morning N°5 どうしようもなくて、衝動。 浅草九劇
Ammo 調和と服毒 上野ストアハウス
暴力の歴史(フェスティバルトーキョー) 東京芸術劇場プレイハウス
serial number コンドーム0.01 ザ・スズナリ
11 鳥公演 終わりにする、一人と一人が丘 シアターイースト
12 劇団鹿殺し 傷だらけのカバディ あうるすぽっと
フロム・ニューヨーク こまかいのの貸し借り OFF・OFFシアター
小松台東 ツマガリク〜ン 三鷹市芸術文化センター 星のホール
温泉ドラゴン 五稜郭残党伝 サンモールスタジオ
中野坂上デーモンズの憂鬱 OFF・OFFシアター
二兎社 私たちは何も知らない シアターウエスト
ワワフラミンゴ くも行き シアターイースト
MCR 貧乏が顔に出る。 OFF・OFFシアター
ろりえ いけない先生 駅前劇場

それぞれの感想メモ

とりわけ印象に残っている作品をあげると、

  • 財団、江本純子『ドレス』@ギャラリー・ルデコ
  • 犬飼勝哉『ノーマル』@三鷹市芸術文化センター星のホール
です。雰囲気は対照的な2作です。みたあとの衝撃とか、面白かったとか、そういった観点でなく、あとから思いかえして、心に留まっている作品といったところでしょうか。

以前は、観劇後に拡散の意味も込めてツイッタで感想を呟いていたのですが、いまはもろもろの事情でツイッタを自粛しています。だけど、なにも残さないのもアレかなと思い、帰りの電車の中でメモを取ることにしました。その日の体調、やる気、観劇後に予定があったときは時間が無いのでメモが単語だけだったりしたので、作品によって文字数の量がまちまちです。たくさん書いたからとくに面白かったとかはなく、感想が少ないのは文字にする力が無かったから、という部分がおおきいです。

このウェブページにまとめるにあたってざっと加筆と修正しました。あと、観劇後のホカホカの状態でメモを取っていたので、ベタ褒めをしてたり、逆に素っ気なさ過ぎたり、テンションによって文章にばらつきがあって、それを均すのに時間がかかりました。昂揚しているときは支離滅裂なことが多く、メモが抜けている箇所がたくさんありました。それをあとから読みかえして(でも自分でも内容が思い出せない……)、できる限りは調べ直して修正しました。それでも誤謬があるかと思いますので、ご寛恕いただけますとさいわいです。ご指摘もいただけるとありがたいです。

そして、なぜか、神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』とgood morning N°5『どうしようもなくて、衝動。』はメモが見つかりません。『福島3部作』も、メモしたような気がするものの、紛失してしまったようです。good morning N°5はお祭りみたいな感じなので、アレコレいうのも野暮かな?ってのがあったのかもしれません。

パラドックス定数『トロンプルイユ』

2019観劇はじめ。

競走馬の話。競馬の知識も経験も、からっきしないので、理解できるかな?と思いつつも、パラドックス定数なので、面白くないわけはない。たぶん私のような客を見込んでのことか、ある程度の説明台詞も交えていて、問題なく楽しめる。

貧乏な地方のファーム(?)の、馬主・調教師の人間側と、競走馬が登場。人間を演じている人たちが、シーンが変わると、手綱を引かれて馬役になるという、1人2役(1役1馬?)というギミックが面白い。性格も、なんとなくリンクしている。馬の言葉はわからない設定だけれど、どこかで人と馬の心が通じているような演出がなされて、人間側の気持ち、馬側の気持ちの交錯があざやか。ファンとして入れこんでいる人が「自分はあの馬のことをわかっている」なんてしったかぶる、客は、馬が自分の気持ちを喋っているのをみれるのだから面白い。

重厚で膨大なセリフの量のストロングスタイル。きっとパンツは黒に違いない。初日が演者の体調不良により延期とのこと。なので、2日目の公演に予約をいれていたが、繰り上がって初日公演だった。でも、文句なく仕上がっているからすごい。というか、これだけ重厚なセリフだと、気を抜くことなんてできないだろう。初日から仕上げていかなければならない。パラドックス定数の作品はがっつりだけ言葉と向き合わなければならない。役者さんの底力が見られるから嬉しい。あくまで馬は馬、人は人と線を引きつつも、人を演じていた人が、急に胸先に紐をつけられ、馬に変わるという演出は滑稽で笑ってしまう。

人の思いを馬に託してしまう……ドラマティックさ。そして馬も夢を競馬はテーマとして演劇と融和性が高いのではないかと感じた。なぜ競走馬に魅せられる人が多いのか、理解できたように思う。

江古田のガールズ『遺作』@「劇」小劇場

好きだなあ、ガールズ。ガールズの作品の一番好きなところは、俳優さんが生き生きしてるところ。かたさとか、緊張とかとは別にして、なんていえばいいか……肌ツヤがいいというか、ガールズ作品で演じてられている俳優さんの姿が、みな輝いている。ほかの劇団でも、全員の演技が自然だったり、息がピッタリあっていることはあるのだけれど、こんなにビビットな演技になるには、どういった演出の違いがあるのだろうか? 役者陣が楽しんでいるのが伝わってくる。稽古場の雰囲気すごくいいとか? 俳優さんが生き生きしてくる作品ほどすがすがしいものはない。私は演劇の門外漢だけど、演劇関係者がみていれば、輝いてる俳優さんを起用したいと興味がわくだろうし、俳優さんにとっても、自分の魅力を発揮できる公演はメリットしかない。恥ずかしながら、生き生き演じていると、女優さんが愛おしく見えて、終始ドキドキ(近いしね)。ああ、キレイだなあとか思って、好きになってしまう。

作品の面白さ、安定感、所属劇団員の個性の強さ、どれをとっても高レベルの劇団であることは間違いない……のに、なんとなくイロモノ感と小さい劇場でやっている感じがしてしまうのはなぜだろう。本多劇場にも、紀伊國屋ホールにも立ってるのに。話が劇団の身内とか、内輪的なものをテーマにしていること多いからかな。今回の『遺作』は、公演が迫った稽古場の風景。過去にも同じテーマの作品があったし、ほかにキャバレーの店員の話だったり、組織の内輪の人間事情が多い。オモテできらびやかに、行儀よくしているのだけど、その裏の、人の本音の姿を描いてみたいとか(かわいいアイドルが、裏側で口汚くののしっているとか)、そういった作りも多い。群像劇の書き分けが非常にうまくて、こういった内部事情を、内へ内へ向かっていく作品が手法と合っているのだろうけれど、なんていうか、こじんまりした感覚を覚えてしまうのかもしれない。ディスるわけじゃないけど、地味(?)なのかな。でも、そのちょどよい雑草感も、ガールズの良さなんだけど(もちろん褒め言葉で)。

自己肯定感の低さというか、自虐でもあって、ナルシスティックなところも。劇団の事情の話だと、どうしても実際の劇団と重ね合わせるように見てしまう……というか、そう見せるように書いているようで、ときに、セリフを使って、自分のことをもっと褒めてくれみたいなところを入れているようにも見えるんだけど、なんだか、屈折した仕掛けだなあと思う。

本作は、実験作というイメージも受けた。パロディから、あるいは何かを生み出していこうかとか。演劇がある程度知っている人へのサービス? 劇作家の名前を出したりとかして(フェスティバルトーキョーがなんだったか、わからんかった)。途中で白い紙吹雪が上から一枚ひらひら落ちてきて、ハハン、降らせるな……と感づいてしまった。そういえば去年の今頃、「劇」小劇場で『山の声』を見たっけかな。「劇」小劇場の窓を開けて飛び降りる……という演出はビックリ。

桃尻犬『俺ずっと光ってるボーイ、健之助』

幸せになれないタイプの人間っていうのが、多分一定数存在しているのではなかろうか……という認識は、あっているのだろうか(自分もその一員であると自覚している)。気質だとか、こだわりというか……あたりまえのことができないし、いわゆる一般的なひとがしあわせだと思うことをしあわせだと(理論的には理解できても)理解できない。また、どこかでしあわせなるということにブレーキをかけてしまう。はたから見れば矛盾だらけだけども、いま起きている事柄が、しあわせな結果に繫がると思えない。厭世主義?

自堕落な生活を送っている健之助は、つきあっている彼女から結婚をほのめかされるている。健之助は、じぶんは結婚とかはできないタイプだといい続けている。その理由として「しあわせなると、からだが光る」からだという。幸せになれないの比喩として、ずっと光ってることになっているという話か、または結婚したくないための男の屁理屈かと思ったら、まあ、なんというか……最終的にはコント気味。前回の『メロン農家〜』で、話が丸く収まってから、ひっくり返すのを見ていたので、今回の終盤で、関係性がうまく修復されはじめた時点で「ハハン、もうひとつなにかブっこんでくるな……」という読みがあったが、当たった。でも、想像の範囲からはるかに超えた展開。

作・演出の野田さんは、ほかの作品で俳優としてみることが多い。だからというか、同じく俳優さんの特性というか、面白さの引き出しから、方法論がわかってるのではないかな。セリフの端々に入れている捻ったセリフが、全部笑いをとっていた。言いかた、間とか、演出が的確だからできたのではないか。基本、やたらと声を張り上げたり、絶叫するような演出は好きでない。作品内の長きに渡って、声をはりあげるところが多かった。だけど、ここのところ、ふりきった大声でセリフを叫ぶことで過度な感情を体現するために使ったり、面白さが加わったりする演出を見ていたので(俳優さんの表現力を知りたいとか、自然体であることよしとするのならば、ちょっと疑問符が残ってしまうのだが)、技法として成立していれば煩わしくない。それに、今回の出演陣は、感情をぶちまける演技がうまい人たち。シンクロ少女の横手さん、ろりえの徳橋さん、NYLON100℃の青山さんも、ほりぶん『得て。』の絶叫をみたしね。面白いメンバーをあつまったよね。

いろんな劇団のエッセンスを取り入れている感じが見て取れる。破天荒な展開ながら、きっちり伏線をフッていたし。クライマックスに曲を入れるのは桃尻犬の手法なのかな。

トリコロールケーキ&劇団「地蔵中毒」合同公演『懺悔室、充実の4LDK』@浅草九劇

少しずつ慣れというか、数を見てきたせいで、演劇をみる目がシビアになってきているというか、イヤハヤ、どうもおこがましい限り……できだけ否定的なことは考えずに楽しまたいものです。

2018の地蔵中毒の活躍ぶりは目を瞠るものがあり、アングラ中のアングラで、世間に受けいれられるのかという疑問符が常に頭をよぎるものの、世の中は面白いものに拍手を送る。最近はキャリアのある俳優さんも参加するようになったし、そういう意味でもイキオイに乗っている。

合同で制作のトリコロールケーキがどういう公演をやっているのか、わからないので、どのあたりにトリコロールケーキの色が出ているのか、わからない。ただ、チラシのテイストはかっこいいし、オシャレのテイストが劇団かなと思う。今作も、なんというか、地蔵中毒を初めて見たあの薄暗く汗臭かった劇場からは考えられないくらい清潔感があった。なかでも、出演者全員、白のシャツと、あざやかな黄色と青のスリッパ? を合わせてきているところなんて、スッキリとしている(あとで似たものみたのだけれど、300coinのスリッパだったのかなあ)。

エクスキューズをいうなら、きれいになればなるほど、笑いが弱まってしまうのが残念。地蔵中毒の泥臭さというか昆虫臭さ(比喩表現)みたいな雑味もウリなのだと思う。所属団員も、よく出てる客演の面々も、所見の頃に比べたら、はるかに魅力が出て役者に磨きがかかっていた。前に出てきて変なこと言ってハケるという、ゆるやかな連続だった中毒が、表情も豊かになっっているし、見ていて「いい顔するな」と見とれるところもあり。あと、地蔵中毒のエース? 関口オーディンまさおさんが休止中とのことで(あ、でも、前説やってたよね?)、欠けた部分どう補ってくるのかというのも

つねづね地蔵中毒を肯定してしまうと、価値観が崩壊してしまうので、なんとか踏みとどまっているのだといっていたのだが、世間にうけいれらてきているし、いい意味で肯定できるようになってきたかもしれない。それに、若手の演劇界で大躍進しているのは地蔵中毒だし。

艶ポリス『Party People』@駅前劇場

艶ポリスも、結構みている劇団。この日は地蔵中毒とハシゴ。地蔵中毒のアレを邪道と呼ぶなら、艶ポリスは王道で正統派。惜しむ無くは、好きだった劇団員ふたりが退団してしまって寂しい。主宰、作演出の岸本さんの、あのふんわりとした色気がとっても好き……というかぶっちゃけてしまうとタイプなので、最近テレビの脚本なども手掛けているようで、お忙しいと思うものの舞台では出演も続けてほしい。(今回は後ろのほうの席だったけど、最前列とか見てるといつもドキドキしてます)。お約束の絶叫も聞けたし。

うまいんです。構成も脚本も。とくに女性ならではの視点。ねたみ・そねみ、お金のはなし、恋愛感。ズルいところも丁寧に描く。今回の主演、川村紗也さん(彼女を見るだけでも価値がある、と思わせてくれる女優さん)が出ているのも、この劇団が実力ある証拠。だけど見続けていると慣れが出てしまうからいけない。もっと、違う味も食べさせてと欲をかいてしまう。そういう意味で、想像の範囲をこえてくれなかったかなと、まあ、なんともおこがましい感想。

チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』@シアタートラム

なんで最近になるまでチェルフィッチュを知らずに過ごしてしまったか悔やまれる。昨年からかぞえて3作見たが、どれも再演。再演でも、時代性を踏まえて変化をつけているのだろうが、社会と密接につながった内容が窺えるので、初演の時期に見たかったという思いものこる。それにしても面白かった。面白い作品を見たあとにフワフワした高揚感が襲ってきて、初演のDVD買っちゃったし、このまま電車乗るとぜったい乗り間違えするから、すこし本屋で休憩することにした。あぶないあぶない。

コンビニの風景を描くのだけど、コンビニは社会の縮図というか、巻き起こるできごとが、いまの日本の姿を風刺(揶揄)しているようで、グサグサと現代社会へ問題提起しているのではないかと感じた。日々のニュースに詳しければ、もっと敏感に社会の風を感じたかもしれない。

もちろん、内容的に若い人でも十分楽しめるけれど、そういう意味では社会の情勢に素養が蓄積された、大人向けな作品でもあるように思う。私のあらんかぎり知識(ありがとうデイキャッチ)で気づいた点は……ひたすら目先の生産性を考え、現場を知らない上から一方的に押し付けてくる本部。食品の廃棄ロス。企業体勢の問題。コンビニフランチャイズ契約の労働環境の悪さなんていうのも、問題視されているしね。

非条理ながらも、上の者への忖度。憤りの拳は届くことなく、無気力無関心が軋轢を避ける最良の選択に成り下がっていること。

自由の名のもと、なにもしないことで、救済をされない(選挙のことがかな)。

お客さまは神的な、過剰なおもてなし精神を謳うものの、根強い民族差別意識(韓国、ヘイト)。

……ざっと、透けて隠喩になりそうな箇所がみつけた。また、企業の成り立ちを神話のようになぞらえるのも、日本の神話にも似せているよう(愛国心?)で、方法論より根性論を唱えるような、古い企業体質を感じさせる部分もある。コンビニは外国にあるだろうか。極めて日本の土壌が生み出したシステムに思う。たくさん盛りこんで構成している見事さに感嘆。

ダンスでもないマイムというかの動きに、すききらいがあるかもしれないが、私はなにより川﨑さんと椎橋さんの愛くるしさが大好き。川﨑さんは、もともとナカゴーで多彩にやっているけれど、とにかく表情ひとつひとつが可愛くてしようがない。椎橋さんは、はじめて東京の家で見た笑顔のあたたかさ。このふたりをみるだけでも価値ある。なんでこの人ミズノのタイツな履いてんだろ?と思ってたところに、最後に意味があった。ちょっと難癖つけるならば、音響が聴きとりずらかった。人がしゃべるシーンには必ずピアノが入ってくる。役者の声はマイクで拾っているのだけど、ちょっとボリュームが小さかったかな。最前列だからかな。

はえぎわ『桜のその薗〜ミワクの鳥が踊る町の山の川の果ての鈴鳴る滝で一人龍を征す〜』@ザ・スズナリ

なんと豪華にチェルフィッチュとハシゴ。はえぎわは20周年とのことで、あれ、たしか15周年記念の手ぬぐい持ってたけど、もう5年経ったか。そのときの作品『飛ぶひと』が、はえぎわ初見で、たしか場所もスズナリ。

このタイトル、以前あうるすぽっとでみた、ノゾエ征爾さん作・演出の『しなやか見渡す穴は森は雨』と同じ手法、劇団員の名前をとってタイトルとするやつ。客演の中薗菜々子さん、あれっ?と思ったけど、そう、あうるすぽっとで拝見した女優さんだ。

冒頭で矢が刺さるとか(そういえば『しなやか見渡す穴は森は雨』も、冒頭で銃撃されて唖然とした)。はえぎわって、団員多いし、本公演時の劇団員の参加率が高いなって思う。客演の人が目立って劇団員は端役になってしまう……という公演も多いなか、これだけ所属の役者に見せ場があるのは、劇団員の所属年数が長めなのも、この劇団のよさかな。無論、役者さんが、それぞれ主役級という実力者なのもよい。

記念公演とあってか、メモリアルな内容だったし、好きなことを盛りこんだ、という感じを受けた。ノゾエ作品、とくに前述の『しなやか見渡す穴は森は雨』や、はえぎわだと『ゴードンとドーソン』の、ふつふつと満たされていくたまらない幸福感。かと思うと、『そこ馬鹿と泣く』のような、奇抜で、終始笑わせっぱなしの話しもある。最初にみた『飛ぶ人は』は、割合ストレートな印象を受けたので、いったいどういうスタイルの劇団なのかと疑問符を持ち続けていた。ノゾエさん、いまや色んなところに作品書いたり演出したりしている。そのためだろうか、スズナリのスケールだと狭いんじゃなかろうかと感じた。見た作品の『飛ぶ人』以外はシアタートラムとかイマジンスタジオとか。なんとなく今回の作品も、もうちょっと横幅がほしいなとか、そんなことを思った。もう狭い舞台ではととまらないスケールの劇団になっている感じも受ける。

今回はちょっと難解、シュール? 開演前にラジオ的な音源を流していたのだけど、そこで「むかしはメチャクチャなことやってた」的なことを言っていた。全裸をやっていたというのは意外(その魂は、中野坂上デーモンズが受け継いでいるのか)。過去からの流れも踏まえ、キレイにまとまりすぎないように作ったのだろうか。血や肉的な、アングラの匂いがする表現があったのも、舞台らしくて好きだ。

毎回バラエティに富んだ印象を持つのもうなずける。

もし、どこかの時点で劇団が解散していたら……? その先の団員たちは何をしているか?を起点にして描いているように思えた。過去作品の要素も入れていたのではないかな。

オフィスコットーネプロデュース『夜が摑む』@シアター711

くじら企画の大竹野正典氏の作品。オフィスコットーネは大竹野氏の戯曲をよく上演している。というのは、岸田國士戯曲賞最終候補にもなった『埒もなく汚れなく』(2009年に事故で他界した大竹野氏の話)を見たときに知ったもので、そのとき戯曲集を買って、いくつかの戯曲を読んでいた。

舞台は公団。アンテナが上についてるテレビを置いていたので、私が生まれるよりは以前の昭和、60年代から70年代くらいかな(でも、背景の屋上と思しき箇所にアンテナが立っていたのでちょっと齟齬を感じる)。

それにしても、昭和といえ、このコテコテの演出はなんだろう。

演出がSerial Numberの詩村ろばさん(今年は『アトムが来た日』を観劇)。コテっとした演出をする感じがあるかなと思う人だけど、ここまであからさまコテコテになるとは、どういう意図だろう。舞台ではセリフを張り上げるみたいな、なんだかクラシックなあからさま。この作品を喜劇的にしたいがためなのだろうか。

ランドセルをを背負った子どもの役が、完全におっさんというのがツボ。だし、いや、たしかに子供って、しがらみのある大人の人ではためらうような、「あたりまえ」の理論を整然と言ってのけて、大人をタジタジにさせることがある。それは、ある意味で、権力を持ったオッサンが、あどけない感じで上から言ってくる違和感は、ズケズケ言う以上に奇妙さが相俟っていある。

それにしても、山田百次さんの(彼の作品も、今回岸田國士戯曲賞最終候補になった)、ちょっと狂ってしまった人物の役、おどおどしたり、理屈がおかしなことをしゃべったり、鬼気迫る感じがハマる。そしてKAKUTAの異儀田さんの「おかあちゃん」役のハマりかたも秀逸。というか異儀田さんの出る配役、おかあちゃんが多い気がするのだが……

ウンゲツィーファ『さなぎ』@驢馬駱駝

うーん、激推しをやめられそうにもない。ビッグになる予感がひしひし。でも、これだけ舞台表現が美しいので小劇場表現を続けて欲しい。

ウンゲツィーファの印象、いま大学を出たあたりから30歳前後にかけて生きている世代のリアルさ。大人の青春というか、大人も思春期なみに、ピュアな悩み方をするんだよね。歳とっただけ。

この観劇の前に『夜が摑む』を見たためか、時代のギャップも大きい。『夜が摑む』は昭和。『さなぎ』は、昭和も終わるいまの時代感。うーん、コアな昭和の世代のオトコたちでは理解できないんじゃなかろうかと……コミュニケーションのありかたとか、つきあってる男女なのに、微妙に敬語を織り交ぜ話している感じとか、昭和のオトコがオンナをひぱってやるぞ的なオラオラ感からすると、隔たりを覚える(草食…なんていい方をするのは下の下で、社会がもっと柔軟になったと思うのだけど)。この日、2作続けて観劇して、社会の有り様の変化を感じたりもした。

作者本人の体の中、というか体験から出てきたものだろう。血が通っているセリフ。前回『自ら慰めて』にでてきたセリフをそのまま使うなど、作品を超えた連続性も見えた。

眼を見張るのは空間のつかいかたと時間の織り交ぜかた。舞台上をいくつかに分け、それぞれが違う場所、違う時間に仮定して演じ、さらに、それらを交差させていく……のは、めずらしいことではないのだけど、うーん、交錯のしかたがオシャレ?というか。分けた空間を、さらりとこえてて混じり合ったり、柔軟な動線。ウンゲツィーファ作品のやわらかさに、自然にマッチしている。これは、映像では表現できないし、戯曲読んで想像もできないだろう。

舞台ありきの作品というのは、一期一会を感じさせる。っていうか、次の日、チケット出せるよ的なアナウンスしてたけど、ほんとうに余ってるの? 見に行かないとソンだと思うよ。

俳優さんたちも生き生きとしている。役者が活きる演出は、やっぱりいいのよ。俳優でなくミュージシャンのかたもいたのだけれど、違和感なかったし。まあ、もともと上手いなと思う人が出ているのもあるのだけど。渡邉まな実さんは、なん段階か階段の先にいるようなひと。若いのに、見えてるところが随分さきにあるように思えて、このひともビッグになりそう。あと、深道きてれつさん。この人も若くて、ウンゲツィーファのほかで見たことないのだけど、気になる女優さん。今回の中国人役の訛りかたとか、最後の台詞(日本語だったのだが、このセリフは誰の視点だろうか)もうまいのである。彼女のもつ雰囲気がとても好き。

神里雄大/岡崎藝術座 レクチャーパフォーマンス『いい加減な訪問者の報告』@CASACO

レクチャーパフォーマンスとのこと、いわゆる劇とはまた一味違いがあり、劇としての感想がいまいち書きづらい。この雑然とした観劇メモの中に混ぜてどうかと思いつつ、まあ、そのへんは私もいい加減に対処することにした。

「アサード(南米の焼肉料理のことらしい)とおにぎり付き」という変わった趣向。パフォーマンス開始から、肉を焼き出す。いい感じになったところで、食べながらパフォーマンスを見ることができる。アサードは牛肉を塩でいただく。焼き立てが非常に美味しかった。南米に留学経験のある神里さんならでは。

神里さんの家族の来歴が、彼の同タイトルで発表されているエッセイなどで、すこし知っていたものの、詳しくレクチャで説明、戦前から始まった日本から、南米への移民の歴史。

彼自身も、自分の家族にそんな歴史があったこと、過去の移民のことは詳しくなかったという。彼の同年代である私も、まるきり知らないことだった。

どうしても、外国人受入の政策を意識せざるを得ない。過去を改めて知ること、今やることに大いなる意義があるだろう。パフォーマンスの都合もあるが、内容はもっともっとたくさんの人に知ってもらいたいし、考えてもらいたい。

シベリア少女鉄道『いつかあのアレをキメるタイム』@赤坂RED/THEATER

シベリア少女鉄道を見たことのあるヒトなら、序盤のとってつけたような演技の部分が全部ネタ振りであることがわかっているはず。今回も、笑いの導火線に火がつく瞬間を、いまかいまかと待つ展開。

引き合いに出すのは悪い気がするが、『カメラを止めるな!』の、伏線が回収されていく構造は、シベリア少女鉄道の技法に近しいんじゃないかなと思う(もとになった演劇作品があるって話だけど)。序盤の伏線が、映像だとわりとシリアスで普通に見える。舞台だとベタベタなシナリオと演技でに見えてしまうのだけどね。見る手との距離の差かな。

シベリア少女鉄道の素晴らしさは、一度ベタな設定で演じ……それをぶっ壊して伏線を改修し、笑いをとりながらもさらに伏線を張って、2段階目の破壊的な笑いに繫げていること。1段の破壊でも鮮やかなのに、2段階破壊のあとに話をまとめる技術は、天才的手法に舌を巻く。そしていつもゲラゲラ笑ってしまう。

今回は時事性が高かった。というのも、序盤のベタベタの下敷きにしたモチーフが、下町ロケット?と陸王?(どちらも見ていないので曖昧)。さらにはゾ○タウンの、なにかと話題な社長をモチーフにしていた。再演があるとしたら、そのときの時事にあわせるのかな。

内容、かなり好き。舞台はどこかの、ナニかの製作をしている下請けの工場(たぶん中小)。ナニを作っているかはわからないけど、ソレの技術はたぶんスゴくて、その技術を基に大手企業と契約に取りつけるものの、ナニかが原因でトラブルになって……。アレとかソレとか、具体的なことはいわず、やたら情熱的な社長と、根性論的な社員、権威的な元請けとのバトル、情緒的な家族愛が描かれ……で、いったいナニを製作してるの?

いいかげん、観客がじりじりしだす。曖昧な言葉でナニを作っているのかスカし続ける役者たちにヤキモキしだしたところで、ひとりの俳優が、バルブを作っていると「キメ」てしまう。驚く周囲の役者たち。「キメ」ないでいたから、好き勝手自由に演技できたんじゃないかとざわめき立つ始末。

うーん。たとえば、町工場のハートフルなストーリーを書きたいなと思っても、それを書くには、齟齬のない工学の知識や、緻密な取材が必要なわけで、いやあ、めんどくさいですよね。下町ロケットとかを見て、「こんなの書きたいなー」くらいの気持ちで始めて、それっぽいものを書くけど、機械の製造とかわからないから、なんとかごまかしつつ雑に処理。でも、情緒的なところは書いてて楽しいからどんどん書ける……みたいなイメージ。

突き詰めると、ただ情熱に走り、基本的な知識や綿密な取材をおろそかにした作品はどうなの?と考えさせられたり(人体の動きを超越したスポコン漫画とか、ゲームでヒトが殺されたりする漫画とかって、昔はよくあったよね)。私見だけど、コレの伏線回収しない、具体的なことはなにも明かさないけど展開していくドラマを、テレビのワンクールとかでやってみたりしたら面白いんじゃない? クレームくるか。スポンサーつかないか。

2段階目の破壊の回収が目覚ましいので、クオリティの高さはいつもどおり高かった。今回、1度目の破壊が早かったので(作品によっては30分くらいネタフリに使ったりもする)、どう展開していくのか(ひっぱっていくのか)、技法に頭がいってしまうけれど、シベ少だから、まあ、いいよね。

テアトロコント vol.33@ユーロライブ

この回は、演劇はわっしょいハウス、劇団かもめんたる。コントはチョップリン、マッハスピード豪速球の回を観劇。

テアトロコントって、当日パンフに前回の観劇評が毎回載ってるんだけど、文章うまいなあ。いま、こんな文、書いているのが恥ずかしい。

マッハスピード豪速球『サービス』。チェルフィッチュの、コンビニをモチーフした、世相の鮮やかさな切りかたのを見たあとだったので、この演目はその定食屋版というか、いまのサービスのあり方をコントの形で突きつけられたようににも思えた。定食屋におけるサービスのありかた。「全品480円、サラダ味噌汁サービス、おかわりタダ!」学生向けに赤字覚悟の経営をする店主に、「味噌汁なくして50円安くしてくれない?」と言い寄る客があらわれ……サービスの形とはなにか考えてしまうようなコントが展開する。店主の……過分に間の抜けた設定ではあるものの、サービスを追求するあまり、サービスに縛られていく……万人に受けようとするのは、量の利益を得ようとする企業側の姿勢として間違いはないもの、ニーズにひとしく充足するサービスというのはありえなくて、笑顔の接客が快いというヒトもいれば、面倒だと思うヒトもいる(私はどちらかというと後者)。なので、お客さまのことを考え……なんてキャッチコピーを出している企業に多少偽善くささを覚えてしまう。というか、「マカロニグラタン専門店」ってなんだよ、ってツッコんだほうがいいのかな。

わっしょいハウスの作品は、昨年こまばアゴラ劇場での『木星のおおよその大きさ』から抜粋した2編を上演。配役が変わって、犬飼氏本人も出演していた(もともと俳優さんやっていたんだっけか)。一度見ているので驚きみたいなものは少なかったものの、何度見ても巧みなつくり。そういえば、折り込みで、犬飼さんがmitaka NEXT selection 20thに入ってることがわかった。ここが選ばれるとは予想してなかった。絶対見に行く。

前半の2組の作品は、なんというか社会派だ。

劇団かもめんたる。考えてみれば、お笑いも劇団もやっている、ハイブリッドなかもめんたるは、まさにテアトロコントの申し子といえようか。でもねー、私的にお笑いのヒトだと思う。それがイイワルイでないけど。

テアトロコントの会場ってこともあるし、時間の短い中で笑いを取る。突如妖怪が出てくるし、ちょっとアレな人物、絶叫あり。早めに笑いに繫げるためか、今回はとくにコント色が強い。どうでもいいけど、劇団かもめんたるの舞台セットはソファが多いような気がする。

チョップリン。過去に見たことがあったかな?なにかするたびドラムロールが流れる「ドラムロールカフェ」は、案外現実的にあったらオモシロイかも? まあ、あくまでドタバタは抜きにして普通に業務をしてのカフェで。2本目は店内の雰囲気に明らかにそぐわない客がきたら。3作目は娘との結婚を乞う男がかなりアレなヒト……というコント。まあ、アレなヒトのアレさ加減で笑うのだけど、自分が(まともでないことは重々承知しているものの)大丈夫なのか?と煩悶している私にとって、客観性と常識がない人物にツッコミを入れられるかどうか、そういった関係の疾患なんじゃないかと考えてしまったり。

あいかわらずテアトロコントは出演陣に対しチケットが安い。お得感ただよう。

鳥公園のアタマの中展2『乳水』@アトリエイースト

鳥公園の作品は『緑子の部屋』(初演)以降から観劇している。このころから、舞台に通うようになった。なので、それ以前に上演した『乳水』は見ていない作品。だけど、鳥公園の戯曲はだいたい読んでいて、たしか、去年のアタマの中展のあとで一度読み返しもしていたと思う。にもかかわらず、始まる直前まで、タイトルと結びつかず、どの話だったか気づかずにいた。

戯曲を読んではいても、鳥公園の戯曲は難しい。『カンロ』しかり、『おねしょ沼のおわらない温かさについて』しかり。読んでいて???ばかりだった。そのなかで『乳水』や、『空白の色は何色か?』は、比較的イメージしやすい作品ではないか。でも、肉体のある俳優が実際に声を出すと、記憶にあったものと、どうも形が違って見えてくるからおもしろい。そして……現実に役者さんが身体でセリフを発することで、あらためて『乳水』は気味悪い話であることを痛感。ある子どものいない夫婦が乳児を誘拐。監禁して育て、さらにその成長した子どもと夫のあいだにふたりの子どもが生まれ、一家で暮らしている……という、そもそもが倫理観をずぶり刺してくるものなのだけど、文字で読んでいたときは、意外と受け入れられていたようだ。俳優さんたちが素晴らしかったのも相俟ってか、終始小刻みに震えていました。気持ち悪い。

くわえて、構造的な部分が明瞭に。これは、今回の演出のありかたもあると思うけれど、文字で読むだけでは拾えてなかった細かなセリフたちも構造的に組みこまれているのがわかる。

アタマの中展のアフタートークのボリュームも濃厚。つねづね、作品は作品で、その時感じたものを捉えられば(捉えられなくとも)それはそれでいいかな、なんて思っているレレレな私なのですが、聴いて目から鱗。まあ、往々にしてアフタートークっておもしろいよね。ともかくが変わった形式の上演だし、1日で完結するので、俳優さん演出家も、ぐるぐる頭を巡らせて濃縮させて作品をつくっていたはず、その新鮮な声、役者さんの捕らえた視点も聴けてよかった。

西尾さんの、第三者が世界を俯瞰的に見ているような書きかたができず、主観的な視点からみた世界で書いている……との旨を話しておられたのは、『緑子の部屋』を見たときから感じていた、どの視点からみているのか、現実がすれ違っていく眩暈のような感覚に、納得がいったように思えた。ここの人物がみている世界(ヒトそれぞれ往々にして捉えかたが違うし、記憶違い、記憶の改竄もありうる)であれば、ひとりの人物が、シーンごとにキャラクタが違って感じるのもおかしくはないし、違う行動を起こしていても、それか事実として舞台上で起こっても、おかしくはない。

まあ、見るヒトによっては???のまま過ぎてしまうって可能性も拭いきれないけれど、そもそも、観客がどう捕らえるかだって主観なわけで、作品に、だれもが同じ感想を抱くわけがない。演じるヒトも、それゆえにある種のブレを伴っているわけで、おなじ戯曲でも、キャストが変われば印象も終わる。

うーん、鳥公園が好きなところはこういった視点の重なりかもしれない。なんて、ところに行きついて、夕飯食べてなかったのに気づいたのでした。

鳥公園のアタマの中展2『おねしょ沼のおわらない温かさについて』@アトリエイースト

『アタマの中展2』の1日。作品を書いた本人も「一番カオス」とおっしゃってたとおり。私も戯曲を読んでいたものの、ついていけなかった作品。俳優の肉体と声があれば理解できるかと思ったが、うーん、やはり難解……というか、開幕と終幕は、一定の時間の成約を設けているだけのことで、練っていけば捏ねられ続けていくものなので、止めなければいくらにでも作品は変容する。その過程の一端の時間を見たというか、時間が来たら開場して観客を入れるためにまとめた形なのか、ともかく定着していることが本来の姿であるのか、疑問が浮かぶ。1日で作品を仕上げるというアタマの中展なので、時間の制約上できたもの状態という感覚がのこった。とめなければずっと変容する、無限な可能性がある。

セリフを話すことに時間の経過がおこるので、そうすれば、時間に前後の流れが生まれ、話の筋道みたいなものが、否応なしに浮かびあがってくるはず……とはいっても「むづかしい作品」という先入観は拭えなかった。理解しようとする、理解したいというバイアスがかかって、不必要に固くなってしまっていて、見る側としてちょっと悪手だったかな。

アタマの中展は、1日(11時から18時まで入場自由の公開稽古をし、19時から公演する)でつくるもので、この日は最後まで演出し終わらかったらしい。そのため、途中からリーディング形式となった。というか、そもそも1日なので、リーディングが前提の公演だったのだけどね。だけど、昨年のアタマの中展に比べると、前回見た『乳水』も演劇然としていたように思う。『おねしょ沼のおわらない温かさについて』は照明の操作も一応入れていたし。

ただ、後半のリーディングになったほうが、セリフがすっと入ってきた。笑いも起こっていたし、身体の動きがくわわると、またどこか複雑に思えた。

気になったのは、音。開演前も創作したものを(コラージュ的なものとか)、今回セットとして会場に敷いていた。視覚的にのびやかになっていたのだが、その上を歩いたり寝転んだりするのだけど、そのときの音があまり心地よく感じなかった。また、壁に、俳優が作った作品を貼っていた。アフタートークで、その役の視点から、自分お悩みや考えていることを描いたと説明があったが、それも、どこか意味を探ろうとしてしまうバイアスがはたらく。探求、が断続的に続く、観劇後、かなり疲労をおぼえた。

小松台東『仮面』@新宿眼科画廊

いつも宮崎弁で作品を作っている小松台東が、今回「east」公演と称し、趣向を変えた公演。劇中も宮崎弁が出ることはなかった。しかし、eastとは群馬だったのか(?)。

小松台東は、心情を捉えるのが巧みで、家族の物語などで、ハートウォーミングな作品(陳腐ないいまわしで申し訳ないが)に非常に感銘を受けた。しかし、ここのところ、その鋭い観察眼で、人間の汚い心情を描くドロドロの作品も見るようになっていた。

今回は、ほんわかとドロドロ、どちらかというと、どちらでもないようでいて、とはいえ、あきらかに人物の暗部をえぐり出していこうという姿勢が、シチュエーションからして伝わってくる。

劇団が増え、編成が変わったということなので、実験的でもあり、また新たな試みの一端ともいえるのだろう。会場も新宿眼科画廊で、私がいままで小松台東を見たなかで一番狭いところだった。笑いを入れる量も多かったかな。

会場に入ると、番号の書いてあるネームプレートと、アンケートが挟まったクリップボードを渡される。観客は、なにかセミナーか説明会のようなものに、参加しているテイになる。クリップボードの紙を読むと、「新天皇即位のさいに恩赦を受けられる可能性がある」旨、主催者の弁護士から恩赦を受けられやすくする申請方法の説明会が始まる……となんともアヤシゲな。つまり、会場は、なんとか恩赦を受けようとしている、なんらかの犯罪者もしくはその関係者たちが集まっている、とわかる。開演時間になると、入口から俳優たちが、同じように受付を通って現れ、話が始まる。

客席を巻き込む形の劇……は、なんども体験しているものの、正直苦手で、集中できないというか、緊張してしまう。なるべくなら自分を限りなく透明にして、舞台で起こっていることを、俯瞰しているように見ていたい。

しかし、距離感としては、そこまで緊張することもなかったので安心。ここまでが俳優の領域っていうのが事前にわかったし、というか、客席もこの状況に溶け込んで、あたたかな笑いが起こっていたので緊張がとけた。見る手にあまり固く考えずに見てねという配慮もあったのかもしれない。

クセの強い人物が話をかき混ぜるとか、急に突拍子もないエピソードをいい出す(それが話に降り混ざっていったりして)、小松台東節は随所にあった。

新宿眼科画廊のスペースは、実験的な作品や肩を張っていない作品によく合う。作り手も楽しんだ作品だろう。なにより、作・演出で出演している主宰が一番目立ってる感じだったし。蛇足だけど、ナイロンの小園さん、以前よりますますキレイになってるな……なんて、客席が近いからかジロジロみてしまったのだけも、スミマセン、ハラスメントですかね。

鳥公園のアタマの中展2「レクチャーパフォーマンス『なぜ私はここにいて、彼女たちはあそこにいるのか〜からゆきさんをめぐる旅〜』」

終演後にメモを取って、あとから整理してこの文を書いているのですが、書き連ねている断片が、自分でも思い出せなくて……ちょっと、ぐちゃぐちゃな感想になります。いろいろ考えさせられたせいか、いつも以上にとりとめがなくまとまっていません。

明治より終戦まで、日本からアジアの娼婦として渡った「からゆきさん」についてリサーチしたレクチャーパフォーマンス。ここのところ、岡崎藝術座の神里さんのレクチャーパフォーマンスがあったりして。これは南米に渡った移民の話だったが、日本と海外の関わりという点で、まあ、オリンピックとやらもあるし、視点がグローバル。パフォーマンスのあとに感想を会場のとなりの人と話したらどうか?ということだったが、スミマセン、私、喋るのがヒドく苦手なので、そそくさと退散。帰り道で、あれこれ考えが浮かんでいたので、やってくればよかったと思いもしたのですが、いやはや、緊張で頭回らなくなってなると思うので。

「日本の男性にはなぜ主体がないのか?」について。これは、この前のアタマの中展2のなかでも、解説しているときにも出たていた言葉。たしかにそう思う……とは思うものの、それがどういう趣旨だったのか、気になっていた。ふと、はて、それでは日本の女性に主体はあるのだろうか? いやはや、そもそも日本人の主体とは?と考えだしたところで、えーと主体って何じゃろ??? みたいなことになっていて、まあ、つまるところ、私は主体について、ほとんど考えたことないというのが事実なのだろう。まあ、つまり男性である私に主体性は乏しい。日本語に主語がなくて……というのも、よくいわれることだけど、言い得てる。

主体性のなさ、の答えを追っていくうちに、明治の姦通罪の制定と家制度について及ぶ。そして、終戦(敗戦?)……

しかし、戦争の意味合いをいまだと問い続けなければならいのと、いまだに大戦について、十分理解がなされていないというのは、戦争についての日本人の意識も主体性を損なっている。もちろん基地問題も。政治家の答弁も、考えてみれば主体性がないように思えて仕方ない。もしかすると、日本には皇室という(神のように崇高)なものがいて、それらから、もたらされての日本人ということなのか……というところまで思いついて、ここまでにしておこうかな。

ナカゴー特別劇場『駿足』@あさくさ劇亭

観劇後のメモを紛失……なので、思いだせることのみ書きます。

ナカゴーって、あたらしい手法の開発(あるいは古い手法を効果的に使う)ことに、毎回チャレンジしている。駿足の登場人物たちが追いかけあう。足をバタバタして「はやく走っている」ふうで追いかけあう。「いつのまにか○○まできてしまった」とセリフを入れて、足の速さを表現する。狭い劇場のなかで、空間を引き延ばす。くだらないなーみたいな笑いに繫げているのでそんなに気づかなかったりするけれど、よくよく考えてみると、演劇らしい手法の追求をつねにしていて、真摯だなあと思ってしまう。だけど、真摯に思えるナカゴーが、ほかのだれとも似ていない破天荒に見えるからおもしろい。

あひるなんちゃら『ハルサメ』@駅前劇場

演劇制作に関わっているわけでないので、演技理論とか、とんと想像ができない(し、聴いてもチンプンカンプンだろう)。けれど、ストーリーの制作プロセスはどんな感じなのかな、と興味がわくことがある。とくに、あひるなんちゃらはどうやって創作しているのだろう? 公演のあとに観客から次回作品のタイトルを募集してたこともあった。タイトルから広げていくのかな。今回は『ハルサメ』。春から受けるイメージを繋ぎ合わせて、構築たのか。それと、セリフの進めかた(屁理屈ぽいところがあるのにじわじわ煮詰めていく)のなかに急にあらわれる突拍子のないキャラクターは、どこから生まれてくるのだろう? それがとっても神秘。

基本出演者は、みんな見たことのある俳優さん。安心感。もしかするとお客さんも常連なのかも。

ある意味、あひるなんちゃらって、一番劇っぽいんじゃないかなと思った。目の前の舞台で起こっていることが演技として見れる。これはフィクションで、突拍子のない人たちは架空の人物。安心感。没入という感じでなく、なにが起こってもこれは舞台だよっていっているみたいで、一緒に笑おうよっていってくれているような気がして、客席との空気がゆるい。映像だと子役つかうけど、舞台上だと、おじさんやおばさんが小学生役をやったりすることも多々あるわけで、フィクションであることに暗黙の了解があるはず。リアリティとか、それをあれこれいってもしようがない。それよりもみんな楽しもう、って。この安心感のかもし出しかたが、なんというか心地いいんだよね。コント?に近いともいえるかもしれない。

最近、(というか、多分作り手なら恒常的に考えるのだろうけれど)舞台と客席の距離について問う、あるいはそれ自体を作品に盛り込んでくるものをよく見た。舞台と客席を分けずに客も一体になって作品にしたり、客席に俳優を忍ばせていたり。今回の作品は、完全に舞台と分かれ、そういう意味では舞台と客席の距離が割れているのだけど、客席と共有している空気感が一体になっているんだよね。なんだろう、安心感。鬱々することの多い日常ですが、ちょっと元気をもらった。部屋に唐突に知らない人が現れるって場面、現実なら怖いけど、悪い出会いじゃないんじゃないかな、と思ってしまった(まあ、あのふたりだからってところがあるけど)。

ベッド&メイキングス『こそげ落としの明け暮れ』@浅草九劇

岸田國士戯曲賞受賞の……なんて取ってつけたような紹介をしなくても、十分に間違いのない福原作品の面白さ。それにキャストが、ベッド&メイキングスのオールスター感謝祭みたいな感じでホクホクです。ガチでセリフを戦わせているのも見応えあった。

福原作品に「病み」を感じる。安藤聖さんの、2年前に書かれた姉の遺書を偶然発見してしまった妹の独白から始まる。いまも活きているが、たしかに行動・言動が不安な姉。妹は、姉を気遣い、姉を支えようと腐心するするのだが……。

さっぱりとして筋が通っている性格の妹も、どこか姉に依存している。見たことのない相手に恋する女。妙な理屈をこねくり回し、異性を口説き、次々と性愛を繰り返す男。出会うことに焦がれているくせに、見ようとしない。ずっと執着していたものの姿を見るなんて、「怖いじゃない」というヒト……理屈がどうも「病」んでいるところ、人間臭さというか、ずぶり抉ってくる。どれも「病み」がキーとなり続ける。

どうしても過去作品『墓場女子高生』が好きすぎて、引き合いに出してしまうのだが、今回の姉……本当に死の願望があったかどうかは不明にしても……死にこぎつける理由はなにも詳らかにされない。『墓場女子高生』のヒロインと同様、「危うさ」をまとっているだけ。それだけに恐ろしい。

幻想と現実の演技のグラデーション。普通に対話しているところで、観念的なセリフをはさみむ。「3日後の20時高田馬場駅で」会う約束を取り付ける相手に「3日後の20時の高田馬場駅って存在するのでしょうか?」と問う。まだ見たことのない未来の場所なんて、本当にあるのかどうか、誰にもわからない。「3日前の高田馬場駅だったら良かったのに」なんて、恋と時間の歯がゆさをパラドックスでいってのける。グッとくるじゃないか。

エモーショナルな表現とリアリズムの表現とを、構造的に使い分ける。コントラストの強い表現なのに、継ぎ目がなめらかで、セリフを分析して、技法として体得しているさまが伺える。

アートっぽい舞台、どちらかというと笑いのような舞台、オーソドックスにストーリーをつむぐ舞台……と、演劇も色々なテイストがあるものの、福原作品は、どれも取りこんでいる。詩的でもあるし、笑えるけど、心理学的な深みも持っている。

野口かおるさんのワンマンショーみたいなシーンもあり、存在だけで永遠に魅了し続けられるんじゃないのかと思う。すごいなあ。

吉本菜穂子さん、あれ、どこかで聞いたことあるなーと思い、あ、□字ックの『滅びの国』の女優さんだと、声で気づく。

佐久間麻由さん、相変わらず可愛いらしいな……病院のコンビニ店員とワンピースのコントラストがいい。

財団、江本純子『ドレス』@ギャラリー・ルデコ

はじめて江本純子さんの作品を見たとき、なんて我の強いヒトなんだろうなと思った。自分の中から溢れてくるものをとどめておくことのできないヒトなんじゃないかと、そんなイメージを抱いた。そして、ちょっと生きにくいだろうなとも思った。でも、こんなに力強く表現しているさまに憧れないわけはない(『幕末太陽傳』みたら大きめの劇場でも全然かっこよかったけど)。

そして、あらためて役者さんすごいなって思った。どんなときも全力なところ。そして、突き進む力強さ。

与党と野党。圧倒的数の線引き。多くのひとに支持されることで、無難で、等価で、道徳的に正しくなっていく。いわば平等に薄まる。大劇場が数の上で圧倒し、商業的にも成功しないとならない。ゆえに無難に、等価に、道徳的になっていく。果たして小劇場に通う人間は、野党だろうか。ギャラリーのちんまりした空間にいる人は、人口比率では0.0000……パーセントだろうか。阻害。自分は大多数にに属さない人間。

小劇場って、やっぱり世間に訴求力が小さいし、すばらしい演技していても、その輝きを目の当たりにする数は、圧倒的野党。テレビや映画で演じてる人って、ほんの一握り。「私の周りで野党に投票してる人にあったことが無い」ってセリフみたい、劇場に出ている役者さんは山のようにいるのに(上手い人はたくさんいる)、華々しい世界に組閣する人なんて、まあ少数(それを望んでないのかも知れないけれど)。カメトメで濱津さんがメジャーになったのなんて、センセーショナル。

小劇場で世界を変えるような作品を上演したとしてどれだけ波及するだろうか。まあ、なににでも二の足を踏んでしまったら、できないことだけど、ただ、自分が大多数にいないという野党感はどこかに抱いているのではないかな。だけど、どんなときも全力な姿がかっこいい。

舞台といわずに、世間の普通になじめないと疎外感。成功や、人並みを手にしていない人間が抱く、「間違っているのは自分か」をグサリ突きつける。それを救うのが賞だろうか。賞があることで、メジャーになりうるかもしれないけれど。

そして、会場が、いわゆる劇団関係のヒトたちっぽいところも、うーん、不思議な空間だった。いい感じで、あのヒト、あの劇団とわかるセリフの含ませいたし、玄人向きかなあと思う節もある。

江本純子さんは、私が舞台に通うようになるより、ずっと前から活躍してるので、もう結構なキャリアの人という認識なんだよね。00年代の作品は知らないし、初めて見た舞台でもクオリティが高かったし。だから、ガリガリに噛み付いた作品を作ってるのは、なんというか、みずみずしいな、と思う。2時間15分くらい、ひたすらまくしたてる4人の役者。怒鳴る、わめく、脱ぐ、織り交ぜてのバイタリティに圧巻。若手か?!と。

そして、女性の表現者は性についても突っこんでいて頼もしい。オトコの私は、女性の考えかをどんどん聞いてみたい(だけど、敬遠しているのは男性側かも知れないかもね)。あまり蓋をするような世間的風潮はなくていい。

けっして上品な作品でないし、賞とかにノミネートされる感じではないけど、うーん、現時点で今年の私のMVPかなってくらい笑ったし、力強い熱量にあてられた。夜公演でよかったなと思う。昼より夜公演のほうが似合う感じする。

KUNIO『水の駅』@森下スタジオ

演劇ファンでありつつも詳しいわけではないので、太田省吾というヒトの作品にピンこない。鳥公園が『ヤジルシ↗』をやったのをみたくらい。古本で『水の駅』の戯曲が掲載されているものを読んだことがあったが、???……で(沈黙劇なのだからわからなくて仕方ない)。ちょうどいいタイミングに上演する情報が入ったので観劇しました。とはいえ、古本で読んだことのある『水の駅』についての記事からしても、これが太田作品で重要であることは伝わってきた。

ですが……不覚。前日に見た財団江本純子の、2時間隙間なしでまくしたてたのに対して、完全なる沈黙劇。耐性ができていなかったといいわけ。緊張感に耐えられず、ぐったりしてしまいました。記憶が断片です。ごめんなさい。

中野坂上デーモンズの憂鬱 MOHE MAP『ぼくらは生れ変わった木の葉のように/稽古』@新宿ゴールデン街劇場

特別公演と銘打って、中野坂上デーモンズとはちょっと趣向が違う。前半は、清水邦夫さんの戯曲。後半は作演出の松森さんの作品、の2本立てで公演。

デーモンズを体感するのに、巨匠のシナリオを使うのは興味深いものがある。つねづね思っていたことだけど、アングラな若手の印象のある劇団が、クラシックな題材を扱うのは、非常に面白いと思う。デーモンズは、内容にアングラっぽさが多いけれど、演出のたしかさを感じる。いつも同じヒトの作だと癖や傾向がどうしても出てくるだろう。すでに批評も名声もあるヒトの戯曲をどう料理するか、であればまた違った一面が探れるのではないだろうか。

前半の『ぼくらは生れ変わった木の葉のように』が、エキサイティングで、心躍る仕上がりだった。いいぞ、もっと来てくれ、もっと! シェイクスピアのセリフと、デーモンズの速いテンポでトランスしていく。重さのあるセリフは高速なデーモンズのテンポを重厚にしていく。

ゆかりの深いはえぎわの竹口烏龍さんのしっかりと見せてくれるところもさることながら、26.25団の梢栄さんの鋭さにまいってしまった。魅了された。シェイクスピアからのセリフが多く入っている影響もあるかもしれないが、それ以上に貫禄すら感じる、凛とした演技。よく名前を目にするヒトなんだけど、あまり記憶に残ってなかった役者さん(経歴を見ると、劇団普通の「帰郷」でみているはず)だったのだが、いやしかし、まるで大女優かのような佇まいにみえたし、主演で、全体を掌握してひっぱっていくか演技。俄然、ほかの出演作も見たい。ストレートプレイで、硬めの作品とか映えそうに思えるのだが。あと、デーモンズは、もっと広い舞台でやったらいいのでは?とつねづね思っているが、今回は窮屈さを感じなかった。作品とマッチしていたのかな。

うーん、しかし『稽古』と並列して上演したのはどうしてだろう。私としては別個に見たほうが、どちらの題目も素直に楽しめたように思えるのだが、どうだろう? 尺の問題はあれど、デーモンズ的に素直に始めるのも素直に終えるのも、違うということなのだろうか。

鵺的『修羅』(オフィス上の空プロデュース 6団体プロデュース「1つの部屋のいくつかの生活」)@吉祥寺シアター

6団体での合同公演。1回の公演で2団体が公演する。鵺的と、かわいいコンビニ店員飯田さんの回をみた。時間的にも1時間程度の中編。

畳の、日本家屋の居間?が舞台という縛りがあるのかな。鵺的は、らしく(?)資産家姉妹の実家というシチュエーションに仕立て、4人姉妹それぞれが夫に離婚を迫る。そこに姉妹の妹(私生児)も絡み、ドロドロと愛憎のサスペンス。

舞台の奥で悲鳴のシーン。まさか、ここで血まみれになって出てきたらベタすぎだろうと思ってたら、ほんとに白の服にべっとり血のりをつけて出てきた。うーん、わかりやすすぎないかと思い、ちょっと笑いそうになってしまった。

前回みた『奇想の前提』で、島から気球に乗って脱出! というシーンで、籠のようなものに乗り込んで、うしろに気球のセットが現れる……という演出があって、それをみたときも、ちょっとチープじゃないかと思った。

うーん、このの血まみれのやりかたも、かっこ悪いんじゃないかって思ってしまうところがある。もすこし裏切り、というかはずしてきてもいいのでは?

あと、音響が突然ドカンと鳴るの(作品には合ってる演出だけども)ビビる。

かわいいコンビニ店員飯田さん『我がために夜は明けぬ』(オフィス上の空プロデュース 6団体プロデュース「1つの部屋のいくつかの生活」)@吉祥寺シアター

企画モノで、鵺的とセットでみた。舞台もおなじ畳の居間を使う。

6団体の企画なので、変化を狙ったところもあるだろう。畳の居間だが、実は宇宙船のなかという設定にしていた(物語中盤で明かす)。

飯田さんは、短編、中編、長編でテイストが違う(公式でも書いていたと思う)。前にOFF・OFFシアターで見た中編のテイストが近いだろうか。

うーん……なんというか、うまくなりすぎてないかな、というのが率直な感想。それは、前回三鷹で見たときにも感じた。始めて見たとき(池袋の新生館シアターでの短編)ような、がむしゃらさみたいなものが失われつつあるような気が。群像を描くのがうまいところが上手くて見応えがあるのだけれど。

空気感。赤裸々な性的表現、の箇所は、笑えるんだけど、客席が温まっていなかったというか、狙った量より笑いが起こってない感じがしたが、どうだろう。昼公演だったからかな。一緒に上演した鵺的とテイストと違いすぎたかな。脱出できない宇宙船がヤバいという恐怖はあるにつけても、緊迫感が少し違ったかな。

うさぎストライプ『ハイライト』@駒場アゴラ劇場

大人になれない大人のためのうさぎストライプ、このシリーズは全部見ている。煙草の銘柄なんだよね。

うさぎストライプは、なんというか、若い。少し重厚感が薄い印象があるけど、『バージン・ブルース』を見たあたりから、オンリーワンだなと確信した。うさぎストライプの世界観はほかにはない。必ず歌を歌うとか、そういう形式的な個性ではなく、毒の盛りかたというか、残酷さ、皮肉さ、メロウさ。どれも舞台作品にはスパイスだが、この調合が醸すテイストが、うさぎストライプならではの調合のバランス。

演劇然としている(それは、劇団の出所を考えれば当然だけれども)。とくに場面を転換させるときの鮮やかなつなぎかたとか、配役の、時には別の人?重なったイメージを作ったり、フィクションとしての描き方、技術を感じる。

東京五輪が失敗し、評判のガタ落ちした東京からはどんどんヒトが去っていく。不要になった建物たちをバラす解体業者が大忙し……という設定は、なかなか毒が効いていていいよね。ネガティブな感情から構成を始めているような気がするけれど、そのあたりが若いと感じるところなのかな。

オパンポン創造社『さようなら』@シアターKASSAI

大阪の劇団なので予備知識なし。舞台芸術のクチコミ・チケット情報ポータルサイト「CoRich」の賞をとっているけれど、あれってCoRich使っていないところはノミネート対象外かしら? まあ、そのへんはあまり気にせず、手にとったチラシに惹かれるものがあったので観劇。うまく説明できないんだけど、デザイン?とか写真?とか、リード?とかじゃくて、なんというかチラシが「呼んでいる」ような感じがして。私は、本とか、CDとか、いわゆるジャケ買いをよくするのだけど、こういう直感に従ったとき割合アタリに出逢う。

大阪から上京してきた劇団、劇想からまわりえっちゃんを見たときに、その熱量に圧倒されたのを思い出す。作品の質は全然違うと思うけれど、気質みたいなものは、あるのかもしれない。勝手な感想かもしれないけれど、大阪の劇団はやっぱり力強い(京都は上品な作品が多いかな)のではないかな。バイタリティの豊かさに驚く。あと、関西のほうが、ガラが悪い話が多いかなーという印象。それは、柄の悪い登場人物よく出てくるってことなんだけど。

淡路島が舞台。淡路は旅行で行ったことがあって、ワタシ的に好印象。狭い社会という感じは受けなかったのだけれど、まあ、でも、ずっと居続けるとしたら、そう思うのかな。淡路島の小さな工場で働く地味なOLの主人公は、自身の現状に不満を持つ、社長の隠しているお金(脱税で貯めた)を強奪して、東京へ逃亡しようと計画をたてる。お金があればきらびやかな生活ができる。自分が変わることができる。強奪計画のために工場の職員を巻きこんでいく……

何度も公園を重ねている演目らしく、役者さんのひとつひとつのセリフと行動に無駄が感じられない。磨いて磨いてそうなったのだろうというトーン。腰が座っている作品を見た。

ジョーカー的な登場人物(中国人の設定)が、ちょっと突拍子なくて、やりすぎじゃない?と思ったけど、拍子のハズれているところが見事に構造に組み込まれていて、なるほど。関西ばり漫才的な掛け合いが自然にセリフに入り込むのと、要所要所で、吹き出すくらいの笑いを挟み込むところ、たしかな実力をみた。あと、地味なOL役の役者さんが、近くで見たらとっても美人だったので、そこは、うーん、配役ミス? 嬉しい減点。

ほりぶん『飛鳥山』@北とぴあ ペガサスホール

会場に入ると、正面の壁にに公園の遊具(お城の形)が描かれている。飛鳥山公園にある遊具だろう。よく見ると、中心に裂け目が入っているので、ここが開いて、セットの転換があるのだろうか……までは想像できた。しかし……

冒頭に川上さんが登場。最初に主要なネタを全部喋ってしまうシステム。そのお城は実は扉になっていて、ブラジルへ通じているのだという。

飛鳥山公園で、アイスクリーム向かいに行っているあいだに子どもとはぐれた母は、不意に扉を開けてしまい、ブラジルへと行方不明になってしまう。それから3年間、母を探しに飛鳥山へ通う娘……

鎌田氏の作品ではたびたび起きることだけど、完全に意表を突かれる設定。って、どうしてそんなこと思いつくの? そして、どうしてそれで作品を組み立ててしまおうと思うのだろうか。これのあらすじを人に話して、理解してもらえるのだろうか。

ワンピースの女性が繰り広げる芝居……が、ほりぶんだったが、今回は男性と、サンバルックのブラジル人女性?ふたりが登場。そして今回、墨井鯨子さんも復帰?していた。

それにしても松竹史桜さんの中学生役。前回に続いて子どもの役。小柄であどけない表情もうまいが、バイタリティがものすごい。ってか、ほりぶんの役者さん、アスリートに見えることがあるくらい汗だくになって動いたりしている。すごい。

MCR『死んだらさすがに愛しく思え』@ザ・スズナリ

凄惨な設定をつくるイメージのあるMCR。今回はいつも以上にグロテスク。というか、殺人を全面に持ってくるあたり、まあ、エグい。

娼婦の母から虐待を受け続け、否定され続けた主人公は、犯罪者となっていた。助けようとしてくれる友人や恋人もいるが、次第に、知人の快楽殺人者と組んで、ふたりで殺人を繰り返すようになる。ただひとり、自分を肯定してくれる恋人を施設に預け、知人と快楽殺人にふける主人公。そして、2か月後、彼女に会いに施設に戻るのだが……

これだけ心情をエグるのに長けている書き手は、犯罪心理にも切り込むんでいるのだろう。快楽殺人者……話を追っていくと、主人公の本音は快楽ではないのかもしれないとしても、それでも、ヒトを殺すという行為に、なんの感傷も抵抗も持っていない(罪悪感は持って入るようだが)。その凄惨な精神に、共感とか……可愛そうというのは、なんか違うにしろ……を観客に想起させるのは、なかなか難しいと思うのに、さすがのMCR。止まれぬ事情があって過失を犯してしまった犯罪……といったようは酌量の余地の残る設定を飛び越えているのに、主人公に気持ちが寄り添っていく不思議。

同情の余地があるから罪を許すとか、罪を憎んでヒトを憎まずとか、そんな性善説然とした感覚からは、また違った視点で犯罪を捉えないといけない。もしかすると、犯罪、についての考えかたも問われているように感じる。また、犯罪者も人間で、愛もあるし、悲しみもある。ただし、どうも一般的という範疇から逸れてはいる。

そして、ここまで救われず描くのも、苦しさを覚える(初めから主人公にたどり着ける場所がなかったにしても)。ただ、最後の暗転のあとに、主人公、母親、恋人のスリーショットのシーンを挟みこんだ意図をどうとらえたらいいか……私は絶対的な救われなさを抱いてしまう。ヒトと感覚が違うということはどうだろう。この主人公は、母親から否定され続けて、そうなってしまったのかという解釈はできるものの、現実で犯した罪はどうあっても肯定できない。

殺人とまではいかないにしろ、常識的な感覚を持てない(あるいは持てていない)ということは、日常にもよくあるだろう(そして、私もそれに悩んでいる)。どれだけ、内面を掘り下げても、起こっている現実の正当性には抗えない。しかし、もっぱら心の内部を問い続ける。自己の肯定の在り方と、愛について。これらは引き離すことができず、そして、問い続ける。

ストーリー展開に、夢の中に引き込まれたり、怪しい宗教に洗脳するヒトがいたり、死んだはずの母が現れたり……と、現実を飛び越える構成を重ね、現実の残酷さをより濃く描いていた。

終幕に感じた感情は、悲しいでもやるせないでもなくて、どう捉えていいかわからない。ちょうど劇中に出てきた、主人公をなんとか助けようとするする友人のように、なにをどうしたら彼を救えたのか。話の舵をどう曲げたら主人公はしあわせになれたのだろうか……でも、なにも思いつかない。すっかりココロをカラッポにされてしまった気分。観劇後に茫然となったのはひさびさ。見ていた人は、この作品をどういった形容詞で表現するのだろうか。

結構いりこんだ話で、この感想のように、軽くあらすじに触れるだけではナンノコッチャわからないと思う。

ちょうど、部屋の奥に埋もれていたガルシア・マルケスの本を見つけて読んでいて、なかに、孫をこき使い、あげく売春をさせる、という話があった。孫娘は無垢さゆえにただ従っている……なんか、育った環境の凄惨さが人格形成に左右する、みたいなところに共通点を感じた。環境ってこわい。

電動夏子安置システム『尾を咥えたり愚者の口』@駅前劇場

名前は知ってるけど見たことなかった劇団。20周年という話も聞こえてきたので、結構キャリアのある劇団。堂に入った演技。セットの精巧さと、動線の巧みさもキャリアを感じさせる。

小説家の次回連載の内容について議論する。表現が時代にそぐわない(忖度?)ので、修正を乞う編集部の面々。作家は修正の要請に不快感を示す。度重なる説得ののち、「修正するかどうかはあなたたち次第」と、不思議なチカラで小説の舞台である戦後、帝銀事件の直後の時代へ編集部の面々をタイムスリップさせる(帝銀事件は、パラドックス定数『731』が詳しい)、

編集部に飛び込んできた、真犯人の記事を書いてほしいと訴える女性。GHQの検閲が強く、上からの力で表現が規制されていた時代。あたかも、今の、いわれもない表現の規制・自粛を、GHQ統治の時代の息苦しさとかさね合わせて描く。

ちゃんと話の回し役がいて、現実と非現実のトリップを繰りかえすのだが、こんがらがることなく話に入っていける。表現の自由と時代の空気感を感じる作品。

東京にこにこちゃん『ラブ・イズ・ノット・デッド』@荻窪小劇場

キャリアを重ねた劇団(電動夏子安置システム)のあとに、若手劇団の全開のシモネタ作品を見た。しかし、こういった作品を見れるからこその小劇場なのだとも再確認。そういえば、荻窪小劇場ってあんなに狭かったかな……

キャストをみると、地蔵中毒、ジェット花子、コンプソンズ、デーモンズなど、いわゆるアングラ臭のする団体で見たことのある役者さんが揃い、まさにアンダーグラウンダーの饗宴。

ほとんどの部屋を、風俗を利用する客が使うラブホテル(デリヘル用?)が舞台。で、利用客を興奮させるために雇われた喘ぎ嬢を軸に話が展開……って設定がよくわからん。ラブホテルの客のテンションをあげるために、擬似的に喘ぐ声を漏らす……って、そういう職ってあるの? ってか、ラブホテルって、そんなに隣の声聞こえるのか。それで、ホテルの部屋が満室になったとき奇跡が起こる……?!という、よくわからない伝説がある、との設定(それももよくわからん)。苦しいときに助け合った仲間が、成功したあとでは疎ましくなるとか、人間臭い心理をついてくるところもあるが、コミックチックなスペクタクル。ぜんぶシモネタ。

ジェット花子の高木道産馬さんが演技しているところをひさしぶりに見たら、なんか色男になってて、ちょっと癪に障った(いい意味で)。役柄は以前と変化なかったけど、あいかわらずオモシロイ。一番笑ったのは、突然サイコキネシス(?)を繰り出すところ。メロンで志村けんのスイカ食いをやるところとかも。

てっぺい右利きさんという出演者、一度デーモンズでも見てるのだけど、すぐに憶える風体と、なんだか雰囲気のある役者さんだよね(役者さんなのかな?)。

「現代劇作家シリーズ」第9弾『日本国憲法を上演する』

日暮里d-倉庫での企画「現代劇作家シリーズ」。1公演が2団体がセットで、合計10団体が「日本国憲法」をテーマに作品を上演する。

この日は、IDIOT SAVANT theater companyと、中野坂上デーモンズの憂鬱が公演。

中野坂上デーモンズの憂鬱が出ていたので観劇。テーマとどう噛み合うのか興味津々だった。デーモンズ常連の役者さんが、同時期に公演を打っている東京にこにこちゃんに出ているためかな、知っている出演者が少なかった。

まず、この企画に少し疑問。

2作しか見てないから、全体がどうだったのかは知れないが、どうも核をついていないように思う。

デーモンズの『No.12』は女子高生に(「校則」という単語が規律などを想起させる)なぞらえて作品に、IDIOT SAVANTは宇宙的に、人類として俯瞰で見て作品にしているような感覚がした。それらのアプローチ自体を否定しないが、もうすこしジャーナリスティックに、分析と歴史認識に追求したものが欲しかった。戦争、戦後、政治批判めいたところや、原発なんてセリフも出てきたかな。どうも表面的にわかりやすく連想されるモチーフをもとに組み立ててしまっている感じがする。憲法というテーマに踏み込みが足りない。どうしても、ままごとの『あたらしい憲法のはなし』の強烈にゆさぶってくるメッセージなどを知っているので、引き合いにしたくないが、物足りなさを感じてしまった。難しいテーマであるが、構えすぎだったのではないか。

とはいえ、まあ、そこは作品。パフォーマンスが良ければかまわない。デーモンズは、いつも以上に高速なセリフまわしで、一時間突き抜ける。d-倉庫はスズナリくらいの大きさだろうか。これくらいの広さが心地よい。難をいうと、この高速セリフは反射神経のいい若者じゃないとつらい。客席が結構年齢層が高かったが、ついていけただろうか。万全の体調じゃないと集中力が持たない。やさしくしろとはいわないが、面白いセリフがたくさんあるのに、高速セリフで間が殺されてしまうのが、どうにももったいないと思う。またスピードと強さを出し続けることで、語調は強いけれど抑揚が弱まる。キャラクターのコントラストが出にくくなり、よほど丁寧に作らないと、誰が誰だかわからなくなってしまう(若い女の子ばかりなので見分けがつかない、というジジイ発言もしておく)。とはいっても、このスタイルの先になにかを見出しているのだろうから見守るしかない。

もう一作、IDIOT SAVANT『忠恕。放る。線上。』

はっきりいってしまうと、趣味ではなかった。だから、肯定的には書けません。ごめんなさい。ダンスパフォーマンスは、もうしわけないがよくわからないのです。ダンスや身体の動きは、なにかのメタファや詩的な意味を感じたものの、素養がないもので、一番評価するべき箇所であろうところを、言葉が見つかりません。恐縮。

うーん、気になったのは、そんなに叫んだり、ドタドタやらなくてもいいんじゃない? 詩的なセリフを低い声で唸るように吐き出したり、荒い喘ぎ声や叫び声を交えて話されると、いかにもすごいこといってるよって演出されてるみたいで、白けてしまった。真っ黒な劇場にみんな真っ黒な服、客席に訴えかけるように吐き出す詩的なセリフ、暗闇に最小限の数のライト……ああ、美的なことをやっているんだなと、頭で思う。でも見る手の美の食指に合致しないと、退屈に思えてしまう。舞台奥から客席にライトを向け、演者のシルエットを浮き立たせる……のもライト眩しい。

そして、憲法というテーマに対して、闇や光や、どうにも美的な単語の応酬で、作り手の捉えかたなのではあるが、そこに人間的な思想や、泥臭い人間味が感じられない。なにか全体的に超自然的。人間が作る法、民主主義というような現実に着地した部分が感じられないことに違和感がある。かと思うと、中盤では時事を揶揄する直接的なセリフが挟まこまれる。怒り苦しみを体現するのが中心の劇団なのだろうか。

どちらも、表現が、感情的や美的なことに重きをおかれていたように思えたのだけれど、そのアプローチに違和感があった。主観だけれど、憲法について、分析や議論を、冷静に、慎重に描いて欲しいなと思った。このご時世だし、直接時事にからめてもメッセージになりうる。現実的な「憲法」について切り込んでいるようすがなく、なにか肩すかしのように思えた。劇団の特性もあるから、それが良いかどうかもわからないのだが。

劇団かもめんたる『宇宙人はクラゲが嫌い』@赤坂RED/THEATER

なんだかんだありつつ、初回から見ている劇団かもめんたる。ステージを着実に上げ、規模が大きくなっている。初回のシアターモリエールから比べると、かなり広くなった会場にいっぱいの客。

今回はカムカムミニキーナの八嶋さんが出演。終幕後のトークでもかもめんたる差し置いて喋りまくるバイタリティ。

桃さんと、小掠さんの古参?団員が、回し役となっているのも(小掠さんのいつも舎弟な役回りってなんなんだろう)、どんどんステージが上がると同時に、実力が増して嬉しい。客演以外の主要団員がしっかり話の軸を作っているのは、高感度が高い。

う大さんらしく、キモチワルイを直球で投げてくる。「ゴミを食べる」だけでも気持ち悪いのに、「ゴミ袋のかどに溜まった汁を……」の詳細な描写を入れるあたり、怪奇派である。ただ、そこに「好きの反対は無関心で、嫌いと好きは裏返っている」をいれてくるとか、じゃあ、このセリフで気持ち悪いと思ったら、本心では好きってこと? そうしたら、ハナクソを食べるシーンに嫌悪を抱いた客は、実はハナクソを……みたいな、作り手のイヤらしくて、本当に気持ち悪い心理戦もしかけてくる。

キャラクタが強くて、とにかく病的なヒトが多くてはちゃめちゃな劇団かもめんたる。今回は、まずまずスッキリしていたのだが、これはここの俳優のメリハリの付けかたがうまかったからだろうか。

クラゲの化身?がなぜ人の心を読むことができるのかいう、ちょっとした疑問が。宇宙人とクラゲが似ているという描写から連想されるが、クラゲが宇宙的であるという前提が、少し曖昧に感じた。神秘的ではあるけどね。

まあ、一番の不満が、佐久間麻由さんの出番が少なかったこと。クラゲ役だったからかな。彼女を見たいがために即決でチケットとったのに。そういえばジェット花子の荒威ばるさんも、劇団かもめんたるにまた出てほしいんだがなあ。

アナログスイッチ『バンブーサマー』@駅前劇場

アナログスイッチの安定感。群像劇に強い感じがする(劇団員けっこういるみたいだし)。大きい劇場でも十分見せられると思うが今回は駅前劇場。

竹取物語をなぞった話。男子5人だけの高校に突然美少女が転校してくる。少人数で和気あいあい団結していた関係性は、女子が入ることでバランスがくずれはじめ……というあらすじを読んでいたので、もっと男子同士がドロドロとした愛憎のもつれに繫がるのかななんて予想。そうなる余地もある話だったが、アナログスイッチの描く群像は爽やかで気持ちいい。たしかに、突然の美少女をみんなが好きになってしまって、空気が変わっていくものの、男子たちは些細ないがみ合いは起こっても、基本的には友情を裏切らないし、ヒト好きなぬくもりが全面に溢れている。青臭い男子高生のノリは微笑ましい。男子ってしょうがないなーって、可愛らしくも愛らしい。アナログスイッチの描くヒトのふれあいは愉しくて好感が持てる。いいなあ。羨ましくて仕方なかった。あんな学校にいきたかったなあ。

突然転校してきた美少女かぐやは、じつは月の住民。月のヒトは感情を持たない……という設定。最初はひんやりとした表情を浮かべるかぐやが、コミック的なつくり。時間の制約があるものの、1週間で感情が芽生え、帰ってしまうというのは、早すぎに思えたが、どうだろう。しかし、美少女にコロッといってしまう男子たち、いまの御時世ならジェンダー的にどうですか? すこーし安易に思うところはあるけど、うるさいことはナシとして、男子って単純よね。というか、私なら、そもそも担任のあの女教師にすでに心奪われてると思うんだけどな。

Mrs fictionsの作品『伯爵のおるすばん』を思い出した(初演をDVDで見た)。死ぬことができない人間が、長く生きていく間に、大切なヒトを何度も失い、傷ついていく。かぐや月にもどることなく地球に残る選択ができるが、それは今いる世話役(同じように月から来た人)と交代しないとならない。だが、世話役は、地球に残るあいだに、大切なひとを失い、悲しい思いを何度もした(月にの住民は寿命がない設定らしい)。ついには人と関係を結ぶのに疲れてしまった。だから、かぐやには地球に残ってはいけないという……結末は『伯爵のおるすばん』と逆のアプローチかな。

余談だけど、開幕まえに、相対性理論(やくしまるえつこソロかも?)の曲を流していたんだけど、あれグッサリくるよね。ずっと聞いてると死にたくなる。死ぬときって、頭の中にこんな曲が流れるんじゃないかって思う。

テアトロコント vol.36@ユーロライブ

メモが少なかったので、感想が短め。

演劇は、明日のアーとワワフラミンゴ。コントはハーパー、ザ・マミィ。お目当てはワワフラミンゴ。ハーパーもすきなので土曜公演に。

ザ・マミィも明日のアーもよく名前を聞くので、十分な実力者たちであることは想像できた。どちらかと言えば明日のアーもコントのようだった。

ワワフラミンゴ。12月にシアターイースト? 声が届くのかしら?と心配になった。

日本のラジオ『カケコミウッタエ』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

三鷹芸術センターの、太宰をモチーフにしたシリーズ。たしか、以前にMCRがやった同シリーズを見た。

ここ最近の数作見れていなかった日本のラジオ。さすがというか、以前よりも研ぎ澄まされていたので、見逃していたのは惜しいことをした。

『駈込み訴え』……太宰の作品を少ししか読んだことがない。全集の何故か2冊だけ家にあって、でも、その中に入っていた覚えはなかった……のだが、どうも既視感。どこかで読んでみたい。イエスを売ったユダの話よね。

まず、俳優陣の豪華さと見事さに拍手。坊薗さんのいかにもらしい議員の演技。クセのあるおばさんの役をやっている印象が強いのだけれど、見事に……感情を表層に表さない政治家然とした演技を貫いていた。なんか怖いくらいピリッとした演技。

フジタタイセイさん、緩急が心地よく、特に抑えたトーンで話す演技が、ずしりと響く。ラストまで抑えた台詞回しだったけれど、静かな演技のなかにあ迫力があった。

Mrs fictionsの岡野さん。この人はコテコテの役が絶品。ヤンキーとか、ステレオタイプに演じながらコメディ満載に仕上げてくる。ヤンキー上手い(Mrs fictionsはヤンキーよくでてくるよね)。

かわいいコンビニ店員飯田さんの辻さん。彼の激情の演技は、この作品の役のようにちょっとズレた人でやると爆発するように笑いを取る。本当に不器用な人だなって思える演技がうまい。

沈さんの真摯な役作り。このかたは総合的に上手い人だ。指先まで血が通っている。肉体全部が役になりきっている感じを受ける。それだけにリアリティがある。ただ、野良猫に歩み寄るには、あのやりかたじゃダメだぞ(猫に好かれてないヒトの設定なんだけどね)。

あと、コンプソンズの役者さんは(劇団自身もだけど)いまノッてるね。若手劇団で、ここの団員が活躍している。本公演が気になるじゃないか……

ネイルの話あたりにクトゥルフ?が入っていたように思うんだけど、違うかな。日本のラジオは、クトゥルフをモチーフにしたちょっとマニアックな感じがする作品もある(ファンに怒られる言い草かしら?)。ダークな雰囲気。幕入りから最後まで、落ち着いたトーンで、ただし変化球は鋭いのの、悪く言うと派手さはない。だが、今回のように太宰の、文学臭のするモチーフは、スタイル合ってると思う。

そして、日本のラジオのパンフの作り込みに拍手。青空文庫から、太宰の全文と、今回の戯曲を掲載するなんて、気が利きすぎ。(ただ、太宰のほうは縦組みでゴシック。明朝で組んでほしかった……)

しかし、なぜか客席が寂しかった。

演劇集団ワンダーランド『過激にして愛嬌あり 宮武外骨伝』@座・高円寺

図書館勤務の経験があるので、外骨さんの名前を知らないはずがない。

とあるwebニュース配信会社(現在の設定)が、思いがけず現職大臣の汚職の現場を写真に収めてしまう。ゴシップやエロ記事を中心に発信しているその会社は、広告主が離れること、政府からの圧力を懸念しスクープの配信に及び腰なため、その記事を配信すべきか(すでにほとんどの社員がネガティブ)ミーティング中……そこへ、(なぜか)時を超え宮武外骨が現れ、自らの過去をシーンを振り返りながらジャーナリズム精神を伝えていく……

と、現代の報道現場を軸にして、外骨さんの生涯を紐解いていく構図なんだけど……この現代のパートが陳腐なためがっかりしてしまった。過去のパートだけでもいいんじゃない?と思えるくらい(過去の時勢の状況をわかりやすくナレーションしてくれる弁士を入れていたし)だった。まず、吹けば潰れるような小さなweb配信…といっていても、そんなものだろうか。広告主から嫌われるかもしれないが、いまの過激なことをやったほうがPV叩き出せるWebのありかたからみても、ちょっと信じがたい(そもそもこの会社、ニュース配信の広告収入だけでやっていけてるの?)。そして、ミーティング中の会議室にズケズケ入ってくる掃除のおばちゃん。掃除にかこつけて、社員の行動をチェックしているおばちゃん、部外者がいるのにもかかわらず機密性の高い会議を進める社員……あまつさえおばちゃんにスクープを話してしまう危機意識の低さ。そもそも情報の扱いかたが企業としてダメだし、ちいさいながらメディアであっても問題外。外骨さんがタイムスリップしてくる時点で、アレといえばアレなのだろうが、それにしてもリアリティが浅すぎる。その後、大臣の秘書からの指示で、あきらかに暴力団関係者が恫喝しに現れ、しまいに秘書と名乗るものから、「写真を渡さなければ建物ごと爆破する」と。メタファとしてこういう脅し文句を選んだのかもしれないが、そもそも、いつも文責に気をはらっているジャーナリストが、こんな陳腐な脅しで従うと思えない。これは、政治家の揶揄なのか(語彙力が乏しいとでもいいたいのか)。ってか、爆弾で始末したとして、大臣はその後の処理を、まったく痕跡を残さずに処理できるの?

そんなわけで、現代のパートで一気に冷めてしまった。とはいえ、宮武外骨の人物像に興味は尽きない。苦境に立たされながらも表具者として邁進する姿に最後には涙ぐんでしまった。それだけに、現在パートに割いた時間をもっと過去のパートに使えばと疑問に思ってしまう。

しかし、いかにもお芝居らしい演技(やたら声をはる、正面を向いて独白、コテコテなキャラクタとやりすぎなコミカルさ)にも興ざめ。丁寧というか、非常に説明らしいセリフも多い。それ、身振りだけでわかるのに……と思うふしがしばしば。史実を明解にすることや、客層の考慮もあったのだろう。しかし、もうすこし話に入りこみたかった。

現在にタイムスリップした宮武外骨が、「わしはPhotoshopもIllustratorもInDesignもつかえる!」といったのは、職業柄笑った。生きていたら、本当に自分でアプリ憶えちゃいそうだな。「アド○は高い!」で爆笑。

中野坂上デーモンズの憂鬱 MOHE MAP『黙読』@新宿眼科画廊スペース0

中野坂上デーモンズが既存の戯曲に挑むシリーズ。

オドロキといえば、昨今、セリフが高速になり続けている演出のデーモンズと反して、急激に、間を必要とする演出。

置いてある文庫本を読み始めるが、椅子の位置が気になって、度々中断してしまう。神経質に偏見に満ちた主観で話す人物たち。文学臭の強い作品。

デーモンズは、独特のアングラ臭がクセ強いけれど、根底に技術と、なにより情熱を感じるので見続けている。

しかし、この企画の意図はなんだろう。速度を増す自作品へのアンチテーゼか、それとも、今の演出の方向性の再確認か。他人の戯曲を演出するにあたり、同じ速度で演出しないのはなんでだろう。戯画を読み解く時間の長さか。あるいは、デーモンズでこの間のとりかたをしないのはなぜだろう。今作は実験的にもおもえたが、実験にしては完成度の高さもかんじた。あと、アートスペースでの公演が似合っているカラッとした明るいセット他人ったのも、またテイストの違い。

すでに評価のある既存の戯曲をやると、地の技術の高さを感じることができる。デーモンズはやっぱり芯の力強さを感じる。が、ちょっと、本公演よりmapのほうが見やすいなと思ってきている。既存の戯曲もどんどんやってほしいとも思うが。

それにしても、地蔵中毒の東野さん、右マパターンの澁川さんのふたりは……ひどく哲学的で文学的なシーンを演じているのに、戯画に見えるから、ヘンテコに味のある役者さんだ。もともと、的を射ていないようなセリフが応酬する地蔵中毒作品でしか見たことのない東野さんだから、まともなセリフ喋るんだ……なんて不敬な感想が先に立つ。大部分が、けっしてオモシロイ演技をしているわけでないではない、が、その佇まいだけで笑いがこみあげてくるのだから、不思議な才能。地蔵中毒マジックだ。

右マパターンの澁川さん。過去に2回しか拝見してない女優さんだが、こんなに声低かったっけかな。抑揚がなくぶっきらぼうにセリフを放つのだけど、みひらく眼の大きさがつぶらさが、アンバランスで、奇妙と形容するしかない存在感。この人も佇まいだけで笑いを誘ってくる。

このふたりに比べ、はえぎわの鳥島明さんは、見た目は一番変そうなのだけど、3人の中で一番まっとうな人に見えるから不思議だ。

どうしてこの2人を組み合わせたか。役者さんのアンバランスさ絶妙にグラグラしていて、終始ニヤニヤが止まらなかった。

ちなみに、客席に知っている俳優さんがずらりといた。

serial number『機械と音楽』@吉祥寺シアター

風琴工房あらためSerialNumber。事実をもとにした作品を作る。それで、今回は、ロシアアバンギャルドの時代の建築家、イヴァン・レオニノフに焦点をあてた作品。ロシア革命を生き、構成主義者として天才的な建築設計を描いたものの、レーニン体制から、スターリン体制へかわり、構成主義は批判の対象になる。当然イヴァンも冷遇される。天才と謳われながら、建築に至った設計はほとんどなく、現存する建築は一点のみという。

なんとなくで、ロシア・アヴァンギャルドのことも聞きかじっている。いちおうバウハウスや、マレーヴィチ、リシツキーあたりが好きなので、ヴフテマスの名前(学校名)も聞いたことはある。だけど、イヴァンは知らなかった。登場しないけれどタトリンやマヤコフスキー、マレーヴィチの名前も出てたかな、ある程度は基礎知識が必要に思える。客層が高めだったのも、題材がこれだからなのかもしれない。

えーと、なんていったらいいのかな。信念(芸術)をつき進もうとする主人公と、それによって社会との軋轢が生まれ苦悶する。才能があり、それを認めているからこそ、ひたすらに自分の道を追う主人公に嫉妬もするし、憧れも抱くきながらも、支えていく……といった筋書きが、なんとなく既視感。みずからの芸術を追うあまり、周りを傷つけていく……のは、割合よくありそうな構図である。主人公の筋の通った信念……も、どこか、見たことのあるような描きかただったのが残念。現実と折り合えない姿。いまだと社会不適合者だよね。でも、モテてるところがムムム。

主人公の、セリフのトーンもどれも同じよう(頑なで理想的)で魅力が描ききれていないように思えた。

ふと、過去に見た、メアリ・シェリーと周辺を描いた『Bloody poetry』を連想したのだけど、(バイロンきょうやパーシーの芸術を追い求める姿勢がダブったか)。『埒もなく汚れなく』なども同系に思える。そう考えると、シンクロ少女の『未亡人の一年』で、小説家を目指し傍若無人になっている男が、取り返しのつかない過ちを犯してしまう話など、芸術を追う美徳に対してアンチテーゼにも思えるが、いや、まあ違うかも。

モダンスイマーズ『ビューティフルワールド』@シアターイースト

苦い。モダンスイマーズの作品は、苦くて苦くて、客席でずっとしかめ面をしていたことだろう。しかし、20周年記念公演で「ビューティフルワールド」とは、よくできたタイトル。しかし1幕目終幕時に、はたして、このタイトルがあっているのか、いないのか、皆疑問がよぎったのではないだろうか。

逃げ道を虱潰しにして、身動きが取れなくなった葛藤から生まれていくなにか……王道な手段だと思うけれど、身動きの取れなさ、真綿で絞め上げる気道の細さの、苦しいこと。この手の手練は、シンクロ少女がうまいが、モダンスイマーズの後味の苦さは、人格攻撃が髄所に挟みこまれていることだろう。どんなに批判しても人格を否定してはいけない……のは、よくいわれる常識として、いやしかし、根本的に変えがたいのが人格である。なんとなく人をイラつかせてしまう、や、なんとなく色気があって異性からいいよられる……も、肯定的な部分もあるにしろ、本人からすれば当たり前のことをしているだけだし、変えろといっても変えられない。

引きこもりである主人公は、なにからも逃げ出して生きてきた……のも、たしかに、否定的な見方をすればいくらでも批判できる。ただ、外的な原因があるにしろ(劇中では、就職した会社でうまくいかなかったというセリフが挟み込まれていたが)、また、潜在的に内向的になってしまったにしろ、彼に言い分がないとはいえない。

パートナーが、自分を下に見ていて爆発してしまう準主人公……も、相手が変わっても、次第に自分を下に見るようになる。相手をつけあがらせてしまうのは、もしかして自分に原因があったのではと、自責の念にかられる。そのほかにも、なんだか偉そうな人、なんだかエロいひと……パーソナリティの悪い影響を、上手く?組み合わせて、苦味にしている。

過去作品『嗚呼、いまだからこそ愛』も、主人公のブスさという、(精神的に開き直ったりすれば可能なのかもしれないが)潜在的に変えられないパーソナリティを軸にしていた。モダンスイマーズ作品の苦々しさの根底に、人格形成から、なんなら死ななきゃ治らないなんて思わせる根っこの部分を突きつけてくる。いやあ、意地悪いというか……ヒトを見るとき、どうしてこのヒトはこんな感じなのだろう?というのを、突き詰めて研究しているのだろう。

モダンスイマーズの制作を知っているのはここ4、5年というところ。結成当時の20周年前から同じスタイルかどうかは知らない。ただ、今回の作品には、かなり時流の影響を感じた。40台の引きこもりの設定などはモロに今そのものだし、不倫もそう。特に自己責任論……身動きが取れないパーソナリティから引き起こす事象に対しての自己責任、は、救いようがないほどの追い詰め方になる。

パーソナリティってなによ。乱暴なものいいかもしれないけど、ほんの少しのきっかけで、引きこもりになったり、あるいは天才になったり。自分に重ねると、苦い部分が多い(逃げてばかりなんてまさに私)。だけど、だれもが純粋な部分とズルい部分を併せ持っている。自分が悪かったのか、周りが悪かったのか、答えが出ない煩悶を繰りかえす。

千秋楽を見に行ったのだけど、当日券キャンセル待ちが45人、開演が押す事態に。大盛況。ロビーのモニタでの鑑賞客もいたとか。評判とかあったのかな。いや、しかし、それも肯ける作品だし、20周年記念公演に相応しい作品だった。

さて、その後にあらためて想う『ビューティフルワールド』。もはや「美しい国、日本」というフレーズは、皮肉にも、揶揄にも使われる。この作品を見た人たちは「美しさ」にどういう意味を見出すのだろうか。

江古田のガールズ『本当にあったら怖い話』@紀伊國屋ホール

作・演出の山崎さんは、まだ31だというのに臈長けたイメージを受けるのはなんでだろう。単純にうまいからか。客層も年齢が高めだから不思議。10周年ということなので、それなりのキャリアではあるんだけどね。

江古田のガールズ10周年記念特別公演の第2弾『渋い劇の祭』ということで、シブゲキで2作品同時上演。もう一方の作品『地獄』のほうは、以前に別キャストで見たことがあったため、お財布と相談して今回は見送った。

会場のシブゲキは、見やすいけど席の高低差が少ないのね。劇場の規模は広いけど、後ろのほうから見るとこぢんまりした印象を受ける。ガールズは広い劇場も使いこなすし、俳優の多い群像劇が巧みなので、少し狭いようにも感じた。チケット取るのが遅かったので、後方の席になってしまったのが悔やまれる。席が遠くてシマッタと思ったのは、このメンバーを近くで見れなかったこと。客演のぱいぱいでか美さんは(TBSラジオ『たまむすび』の年末に登場している時くらいしかしらないものの)一度生で見てみたかったし、できれば表情までバッチリ捉えられる席にしたかった。藤井咲有里さん、岩井七世さんあたりも、小劇場好きなら心躍るキャスト。前列で見てたら、それだけで眼福だったな、と。ガールズ団員兼文学座の増岡裕子さんも久々の登場。宮地大介さんはビタミン大使ABCで見たとき以来かな。ガールズは、劇団員それぞれの個性が立っているので、カトウクリスさんのKYっぷりを十分堪能(話の筋では、かなりいい人の役だったけど)したものの、できれば勢ぞろいで見たかったという感想も(劇団員は、もう一方の『地獄』に分散して出演)。

心霊スポットである廃屋に、心霊ドキュメント番組の撮影にきたスピリチュアルタレント(大物? だが落ち目な様子)と、地下っぽいアイドルがふたり。霊感があることを売りにしているスピリチュアルタレントは、リアルなドキュメントを撮ろうと躍起になるし、アイドルはここで爪痕を残そうと目をギラつかせる。制作側は、心霊ドキュメントを成立させようと必死。廃屋にスピーカーや小道具を仕込んだり、しまいには白装束を着せた劇団員を潜ませ、なんとか番組を成立させようと「演出」を図る。しかし、カメラが回りはじめると、目立ちたいがために流れをぶちこわすアイドル、つぎつぎと失敗する仕掛け、怒り出すマネージャー……制作サイドでの軋轢が巻き起こっていく。

見どころは、地下っぽいアイドル役のぱいぱいでか美さんと増岡裕子さんの2大巨塔の饗宴。江古田のガールズに出演すると、俳優さんはみんな上手くなる補助魔法でもかかっているのか、本当に演技が全体がよい感じになる。ぱいぱいでか美さんは、舞台初めてとの情報があったが、芝居の経験自体もすくないのだろうか。スラッとして普通にきれいな人だった(別段胸が大きかったどうかは確認できず)。ガールズに溶け込んでる感じがして、演技でも一線で戦っている人の実力を感じる。全体の演技レベルが上がるガールズに最初に出たのはよい経験だと思う。グラビアのベクトルで収まらない方向でも戦えるのはいいよね。冒頭で「蹴られた犬のような目をしている」とディスれる台詞があるのだけど、うーん、なんかうまい。この言葉のセンス、どこから出てきたのだろうか。

久しぶりの増岡さんのパワフルさも必見。アンタチャブル山崎弘也氏ばりのウザさを畳み込むシーンがあって、このセリフを書く人もすごいと思うけど、これをスベらずに挟み込んでいく力量に感服。名実ともにガールズの看板女優だ。

そういえばガールズって、心霊のモチーフが好きなのかな。霊的でもなくても、恐ろしくて逃げ出したくなるような設定……からの葛藤を描くことが多い。怪談はうってつけのモチーフといえるし、単純にホラー好きなのかな。今日は畳の間のセットだったが、何度か見たことがある。

東葛スポーツ『78年生まれ、宮部純子』@シアター1010 稽古場1

もっともエッジが立ってる劇団(?)だと思う東葛スポーツ。なんとなく世界がフラットに当たり障りなく、誹謗中傷は匿名なっていく時代 に、鋭利な言葉を選んで突き進んでいくのはハラハラしつつも気持ちいい。というか、劇場がいまや一番自由なのかもしれない。二兎社なんてみてると、与党に投票するヒトは演劇とか見ないのはないかな、って思う。

女優、宮部純子さんの半生(?)を全面におしだし、東葛スポーツらしく、ラップを交える。世代が近いので、幼少の頃の時代感が懐かしい。というか、宮部さん歳上だったんだね……ずっと若いヒトだと思ってた。時事満載。とくにフェミニズムを軸に組み立てて、まあ、男性らするとスミマセンの、カタミの狭い内容ばかり。どこまでが創作かわからないけれど、まあ、壮絶。宮部純子さんという女優をアトリエ春風舎の自主企画で2回しかみてないはずなんだけど、一発で覚える雰囲気のある女優(考えても見れば、なぜ一度もみたことのない女優さんの自主企画に行ったのか、不思議でもある)。この人が出てれば間違いないだろうと思わせる役者さんである。

かわいいコンビニ定員飯田さん『マインドファクトリー』@すみだパークスタジオ倉

ちょうど吉本興業のパワハラ問題が騒がれていた時期で、ザ・ハラスメントが描かれる作品を、いい時期に再演をあてたなといえなくもない。なんとなく時代がそうさせているんじゃないかな、と思わなくもない。

話は高校の野球部。野球に打ち込む生徒と、熱血指導の教師……だが実情は過度な練習と、指導の名のもとに精神を追いつめる教師の姿。そして、それから逃げられない生徒たち。努力と美句を並び立てパワハラを繰り返す教師、の姿は、いかにも旧世界。デフォルメがききすぎているともいえなくはない。戦前の日本軍か。しかして、日本人の風潮に根強く残る精神論を体現している。寸分のスキも見せず、言葉巧みに生徒を追い詰める……

教師が努力の先に育まれる自主性やアイデンティティを謳いながら、部員をまるで兵隊のように行進させる姿は、とびきりのアイロニー。だけど、本当に美しい国であるところの日本には、大・小規模は違えどこういった空気感が根を貼っている。高校野球はこれまでも、汗の美しさの裏に、根性論が問題視されているし、パワハラのことをモチーフで描こうと選択されるくらい、典型的な題材になってしまっている。

もっと問題を提起しているのは、言葉で攻め続けられることで、諦め、自分が悪いのではないかという自己否定……洗脳の過程が描かれていること。自己責任論の拙さを砕く話の構成。言葉巧みなやつが、幅を利かせる、攻撃的な人物にビビって周りがやり過ごしてしまう。ドツボに嵌まっていく日本人の空気感を見事に描いている。

言葉で組み立てる演劇をつくるヒトが、これほど言葉の負のチカラを駆使しているのには、正直、その技量のすばらしさより、怖さが勝ってしまった。ペンは剣より強いかもしれないが、その強さの使い方によっては、確実にヒトを傷つけることができる、と確信させる。

私は、幼少体験が捻じくれいたせいか、努力論も根性論もまったくもって(それが悪いとは言わないけど)懐疑的。野球世代でもないし、どうも、あの特有の男臭さがアレルギー(頑張っている人にはごめんなさい)。そして、言葉というものの怪しからぬチカラにずっと危機を持っている。特に努力とか、美徳とかを謳う文句、その正しさに太刀打ちできない。努力が大事なんてあたりまえじゃないですか。しかしその実、みずからのチカラの誇示に使用されていたり、解釈の名のもとに都合よく使われていたりする。お前のためを思って……なんて、無意識であっても、自分のチカラを誇示したいという、相手を従わせようとするベクトルが生まれてくる。それを、なんとなく嗅ぎ取っていたのかな。私は、正しいことを正しくいう人がどうもキライ。なんとなく、なんで自分が体育会系のきらいなのか、再確認したりもして。

聖書の『ヨブ記』を連想したりもした。神の教えを守り、正しくいきているヨブに次々と災難が起こる。周りの人もヨブが不敬であるから不幸が来るというが、ヨブはまったくもって敬虔な人間。正しい人間であっても不幸に見舞われる。正しいおこないをしていても、かならずしも幸福は訪れない。ズルしていても幸福な人はいる。じゃあ、敬虔でいることの意味とは?

今回は再演で、初演は飯田さんの出世作(?)といったところなのかな(初演は見ていない)。たしかに強烈な作品。最近の作品よりエッジが立っている感じもする。ただ、着地点がないように思えてしまったところもある。これだけ追い詰めた先に、客は、パワハラ教師が裁かれるカタルシスが見たかったかもしれない。ラストで教師は逮捕されたようにのだが、どういう経緯かは説明されず、スッキリした形でない。どういう着地点を見出すか。学校側も、ことを荒立てないようなたいどをとる。モヤモヤのママ幕を下ろす。舞台作品は、スッキリしなくて終わってもいいと思うけれど。モヤモヤを残すにしても、主人公のこの先を想像させるものが欲しかった。

あと、教師がマネージャーをレイプしているというくだりがある(し、多分彼に協力的だった周辺の女性も、なんらかの関係があったのではないかと疑ってしまう)のだが、もしかすると、そのへんはないほうが、さらにイタタマレナイ感じもするのでは。暴力もそう。パワハラをする教師が、本当に品行方正だったら、さらに立ち向かいようがないのではと思った。あれだけパワハラや性的虐待をしていれば、さすがに弾劾されるだろうし、というか自殺者が出るかもしれないし(作品中で自殺しそうになる人は出る)。

かわいいコンビニ店員飯田さんのメンバーは30歳前後かな。作品の制作過程に、著者の生きてきた世代の思想が反映されると考えられる……だとするなら、もしかすると今の若い世代は、相当精神的に疲弊しているのではないかと思ってしまう。どうにも、この世代の人格を作ったであろう社会を感じずにはいられない……なんてことも頭によぎった。

シベリア少女鉄道『ココニイルアンドレスポンス』@シアターブラッツ

演劇が演劇の盲点を刺激してくる。毎回、シベリア少女鉄道は、その仕掛けに驚かされるのだけど、演劇の隙間を縫ってくるところにヤラレタ。

冒頭に登場人物4人が、それぞれ一人芝居をはじめる。だれがと会話しながら、そろぞれの遍歴を明かしていく。

次のシーンで、この4人がバーに集まるシーンになる。会話から、かれらは大学のサークル(?)の仲間であったことがわかる。そして、久しぶり再開した4人は、うまくいっていない今の生活を吐露し始める……

仕掛けをバラしてしまうと、冒頭の一人芝居のとき、だれかと話している演技……いわばエアで登場した人物が、バーのシーンで次々と登場してくる。当然舞台上には4人しかおらず、透明な空間に向かって会話を続ける。

行間を読むなんて行儀のいい言葉ではない。想像力? 透明な登場人物たちの増殖、実際に居たら、舞台上にはヒトが溢れかえっているはず。そして、話の関係からすると、目に見えている4人は……じつは脇役的な存在? 透明だからこそ、特異な容姿していたり、技能を持っていたり……なんでもやり放題。

本当にうまいし、わかりやすい。演劇をたくさん見ているヒトのほうが仕掛けに嵌まりやすそう。

ミセスフィクションズ『月がとっても睨むから』@すみだパークスタジオ倉

なんのためらいもなく、面白かった! と絶賛したい。面白かった! この作品は、1年前に中止になったことがあったので、期待していないといったら失礼だが、構えていたところもある。1年時間をかけたことで、逆に初期の構想が薄まったりすることもあるんじゃないかと思ったりして。だけど、結果的に完成度が高まっていたと思う。気になるのは、もし去年駅前劇場でやっていたら、作品の舞台の錦糸町のネタは全部使えないはずだけど、もしかして書き終わらなかった部分ってそこ?

一般的に客がのりづらいといわれる(?)昼公演で観劇したけれど、客席の音頭がよかった。序盤の展開が速かったように思えたが、それが客をぐんぐん引き込むことにつながっていたんじゃないかな。

1年前のキャストと同じということを思うと、作品の骨格の大部分は、以前に完成されていたのではないかと思う。キャラクターと俳優さんの相性が噛みあっていた。

テーマがハッキリしていたところ、そして設定のユニークさが大成功。ざっくりいってしまうと、犯罪を犯してしまった人が、その後の人生の罪悪感とどうやって折り合いをつけていくか。犯罪心理と被害者心理。罪を犯してしまった主人公が、虐待をしていた父親の幻覚に責められ続ける……という精神疾患のようなものに入り込んでいくのも秀逸な描きかた。過ちを犯したものでも、ヒトとして幸せになってよいのではという倫理と、また、罪は償い続けなければいけないという強迫めいた観念。やさしさ、理性、そして本能。罪だけが悪であって欲しくもある。……と、テーマのチョイスが素晴らしいだのだけど、設定の段階でとてもネジ曲がっていて(いま、もちろん絶賛なのだが)、ミセスフィクションズの持つ、古き良きコミック感で作品を完成させている。

主人公の女性はショタコンで、16歳のときに、小学生の男子を誘拐・監禁してしまった過去を持つ……20年経ち、被害者の少年は、性的被害をはねのけ、富と権力、ホストクラブやラブホテル経営など、あらゆる事業に成功して、錦糸町のヒーロー的存在になっていた。ある日、偶然ふたりは再開する。錦糸町のヒーローとは真逆で、罪の意識に苛まれ世間から隠れるように生活している女を見て、ヒーローは「過去の体験が今の自分を築いた、むしろ感謝している」と手を差し伸べようとするのだが……

かつてネットでショタコントークをくり広げていた仲間が、実際に犯罪を犯してしまったメンバーを気にかけて、「一歩踏み外せば自分がそうなっていたかも」という気持ちに苛まれ続けているのも、心理的に見事な描きかた。そして、みんなが優しい。だけど、被害者の少年は、言葉では彼女を許しているいるはずなのに、深層では虐待の記憶を忘れられていないという、言葉だけでは足りない、言葉のチカラの不自由性も用意している。見事。

ロリコンが幼女を拉致監禁……という事件は実際によくニュースを賑わす。その逆は……見ないかな。一般的にあまり起こらないのかな。でも、逆に起こったら…という発想が、この作品の勝利につながっている。セーラーVの姿で少年にイタズラ……という、極めて腐女子の妄想を盛り込んだため、テーマの重さにもかかわらず、終始笑いが起こる。だけど、男性側、ロリコンから描いたら、性的被害者は女性になるわけで、被害者と加害者の関係が同じように描けるかといえば、難しさをおぼえる。実際に漫画家の役がでてくるし、繰り広げるセリフの節々にマンガ、アニメ、特撮ネタをふんだんに入れている。私はまだまだ無知であるので、半分わかったかなというところ。というかセーラームーンもイマイチだしね。詳しい人は、もっとゲラゲラわらえるはず。

書き手が男性か、女性かということが結構気になる。とくに、女性しか描けないだろうという身体の問題に切り込んだものや、あきらかにステレオタイプに男性・女性が描かれていたりすると、それでいいのかなと意識するし、女性はそう捉えるのかと気付きになったりもする。さて、セーラームーンはなんかエロい、は、女性も共通認識なのかな? というか、子どもでもなんかエロいって感じるものかしら。っていうか、告白してしまうと、冒頭の真嶋一歌さんがセーラーVの服着てでてくる、チラ見せのヘソあたりにグッときていた。真嶋一歌さんって、画になる強い女優さんだと思う。とくにエモーショナルな演技に入ると無双。

ちなみに「ペットのアマゾン」ってのがちょくちょく出てきたけど、アレだよね。アレ。わかる人の頭には、あの姿が浮かんでくる。

中野坂上デーモンズの憂鬱 特殊公演 MOHE・MAP 3『アイスクリームマン 〜中産階級の劇的休息〜』@OFF・OFFシアター

中野坂上デーモンズの憂鬱の、重厚なセリフの応酬には慣れが必要で、頭が追いつくのと、話を咀嚼していくのが遅れると、スピードに振り落とされてしまう。

登場人物が多いとちょっとつらいかな、と思っていた。セリフのスピードが速いと、それぞれの言葉の言い回しのクセなどがフラットになりがちなので。ただ、この演目は岩松了さんの戯曲で、構成が組み上がっているため、スピードが速くても、それほど複雑にならなかった。

しかし、気になるのはやはりスピード。見ている側からすると、序盤はもう少し緩めでもいいのでは?と思ってしまう。というのも、高速な台詞回しに、序盤のおおまかな人間を掴むのに、セリフに追いつくことで精一杯になってしまう。特に、登場人物の多い群像劇だと、後々深まっていく、

主役と端役のコントラストが強ければ、印象に残る人を軸に追えばよいのだが、こう、それぞれの含みがある人たちは、できれば詳細にそのキャラクターを紐解きたい。あと、このスピードになれてくると、中盤から、妙にテンポが遅くなったように感じてくる。特に、最後のシーンが素晴らしかったので、もっとエモーショナルに、黒く響いてほしかった。逆に終盤のほうが速さが欲しかったように思えたが、どうだろうか。

デーモンズによく出演されるかたも多かったが、面白い俳優さんが集まってきていた。ナイロンの青山さん。この人は見た目の綺麗さがあり、かつ狂気的な表情がうまい。怪談とかやったらハマりそう。関係ないけど、足細っそ。前列で見てると、ちゃんと食べてるのかなあとか思っちゃう。

てっぺい右利きさん。見た目のマルコメ感で、すぐに見るものを魅了してしまうが、この人はたたずまいに存在感がある。レトロ時代感がただようので、コメディでも味が出るし、哀愁も背負える。

三森麻美さん。この女優さんに得も言われぬ期待感をいつも持っている。綺麗どころもコメディエンヌもこなせるはず。彼女が無双して暴れまわるような作品も見てみたい。

夏の日の本谷有希子『本当の旅』@原宿VACANT

関係ない話だけど……この公演の一週間前に、栃木にある大谷資料館に行ってきた。採石場の跡の地下空間が、映像作品のロケ地として利用されていて有名な場所である。なかに入ると、なるほど荘厳な巨大地下空間。ライトアップされており、所々では、誰それ有名人のpvに使われたとか、なになにのシーンの場所と説明が出ていた。……と、とまあ、映像作品をみていない自分としては、ふーん……くらいなもの。資料館前のカフェにはふわふわのかき氷。ああ、なるほど。全体的にバエる狙いのスポットなのだなと。資料館内のライトアップも、カフェメニューも、SNSアップ欲を刺激するようにつくられたものなんだな。でも、肝心の、なんでこの地が採掘場として発展したか、採掘の技術・工法の説明は、資料室後方あるものの軽く触れられているだけだし、資料室の説明、だれもよんでねえ。

舞台の感想に戻ると、割合わかりやすくて、イマドキなテーマだなと思う。原作は小説で出ているようなので、それはそちらで。独白を挟み込んだり、状況や心情をセリフで語ったりと、小説的な表現も多かったが、輪環的なつくりと、登場人物の3人を、複数のキャストで代わる代わる演じていくところなど、演劇!感が強く出ていた。スクリーンの位置が、客席によっては見にくいだろう。ちなみに、私がモロかぶりな位置に座ってしまった。

マレーシア旅行に出かける、気のおけない仲間。友情で結ばれている3人が、旅先でたのしくふれあうのだが、次第にその友情の薄さが露呈していく。旅行にきたがらも、やたらとスマホで写真や動画をとる姿、ことあるごとにスマホを操作し続ける。出てくる小道具、スマートフォン、セルフィ-の棒。もはや写真を撮ることが目的か、といいたくなるよう……炎上とかは描かないものの、SNS文化の、ある意味イキスギなところをザクリ。文明批判とも捉えられそうだが、まあ、昨今の電車内の人たちを見れば、依存といって差し支えないレベルでみんなディスプレイを覗き込んでいるし、お盆に久しぶりにあった姪子たちも、暇さえあれば、スマホを操作していた。刺激的なものに目が行くのは、もはや本能的で、仕方ないのではないか。かくいう私も、スマホでこれを書いているのだし。

人間には、現実から逃避する場所が必要なんじゃないかと思う。それは、社会的な軋轢が強くなるほど。彼らが社会的に成功していないことがエピソードででてくるし、スマホに頼らずとも、かれらはすでに、社会の価値化を斜に構えてみることで、現実からの逃避をしている。まあ、自分も似たようなところがあるし、こういった逃避的な心理は、社会的に不満がない人でも、どこにでもあると思う。ときには現実の軸から外れて頭をリセットする、人間にそなわった行動なんじゃないかな。

どうも、話を聴いているかんじからすると、かれらは社会的に成功していない様子ではあるが……かれらが語る自分たちの生きかた、は、別に間違ってはいない(というか間違った思想なんてないだろう)。社会的につまみ出されたヤツらのイイワケとも取れるけれど、それぞれの立場上の思想はあっていい。だけど、なんども繰り返すうちに、言葉が形骸化しているいき、かれらの心情も、なにもかもがう薄っペラく見えてくる(まるでどこかの国会答弁のように)。そして、SNSでは見栄えいい姿をとどめて置くことに躍起になる。やがて3人は軽率な行動から、怪しいタクシ運転手に拉致される。危険を察知しながらも、タクシーの車内で、行動も起こせず、Lineで相談し合い、動画を取り、音楽をかけて気を紛らわす。現実の逃避をディスプレイ上で続けた結果、本当に現実と向き合うときも、ディスプレイに反映されてバエるような行動しか取れなくなるという皮肉。しかし、かれらはどこまでも現実から逃避することしか出ない。根性がない(?)と見られるかも。でも、この、どこまでも逃避してしまう姿も、わからなくも無い……と思う。

本谷有希子さんは芥川賞を射止めたので有名。しかし、私が観劇を始めた時期より、ちょっと前の世代からキャリアを積んでいる人で、作品を見るのはじめて。世代は自分と同じくらいだと思うのだけど。キャストの俳優さんも、中堅以上、実力のある人、というイメージだ。見たことのある人も多い。

思いかえせば、はじめのセリフですべて言ってのけている。最後になって、やっとそのセリフに気づく。構成の堅固さを見た。そして、思想を語る3人の言葉の軽いこと。言葉で格闘している演劇の作家が、こんなふうに言葉を軽くしていく技術を見せつけてくるとオソロシイ。言葉の不確実性のアイロニー。

くによし組『2020年以降の夏』@花まる学習会王子劇場

この劇団の主催、国吉さんの名前はよく目にしていて気になっていた。たしかヤリナゲに出演する予定が降板になったため、見る機会を逃していた。

幕前の曲で、やくしまるえつこの歌声(相対性理論かな)……で一抹の警戒感。やくしまるえつこさんの歌声の曲を聞いてると、なんか感情がグラグラ揺さぶられて死にたい気分に……抜け出せなくなるような歌声とリリック。この曲をかけるチョイスで、作者の世界観、価値観を想像してしまって……事実、死に直結したテーマの話がきました。

率直な感想は「若いなあ」。いや、青臭いとかってディスるつもりは毛頭なく、単純に自分より世代が何段階か違う。その世代のズレを受け止められないところもがあるのは事実で、それを「若い」と表現してしまう。しかし頑固おやじみたいにケシカランとは思わないし、否定したくない。今の人は精神的に昔の人より10歳若い……なんて、よくいわれている言い回しなんだけど、その印象。死というテーマをわりとカジュアル?に、性についても、私みたいなオッサンからしたら、ずいぶん先進的に感じたし、真摯に向き合ってきているのだと思う。だけど成人しているけど、熟していない感じがする。中二病?なんていいかたでいいのかわからないけれど、なんというか、いまの20代の精細さと危うさをよく体現している。まあ、私がこどもの頃には『あぶデカ』とかトレンディドラマたち昭和の、いまから思うとわりあい短絡的な姿のオトナたちを描いたものを見ていたからな。

テーマのチョイスが秀逸である。3編の短編で、時間的な差異はあるけれど、つながっている。どれも鋭い。

長く続いた戦争の果てに、人間以外の生物が人間の形になる(化学物質によるミューテーション?)現象が起こった世界。美人のセミ人間に恋した男は、そのメスゼミを家に匿う。人権のないセミ人間は、社会で不当に扱われ、殺されることすらよく起こる。人権の問題や、しかし、男はセミが美人だから惹かれているという、利害の絡まった事実。そして、セミが短命であることと、メスは生涯一度しか性交できないという、切り込んだ設定。命の重さは人間もセミも同じか? 途中で、手塚治虫の『ブッダ』の中に描かれていた、生き物がうごめいて輪廻転生していくシーンを思い出したのだけど、のちの話で「ブッダ」というセリフが出てくる。作者の死生観に仏教的な知識があるのではないかなとも思ったりして。

2話目は、「消しゴム病」という、ものを覚えることができない、まあ、アルツハイマーのような病気を発症した少女の話。死と直結しなくとも、生と死にとって記憶の役割は切り離せない。この世界観のなかでたびたび戦争が起こっているようなのだが、3話目は直接に招集されたり帰還したりする男がでてくる。どれも、生と死に重きをおいたテーマだろう。

気になったのは、どうも会場の空気にハマっていなかった感じがしたところ。私がノれなかっただけかもしれないが、公演初日かな?と思うくらい、ぎこちなさを覚えた。笑いは起こっていたけれど。

役者さんたちの演技はおもしろく、とくに芸達者な堀さんや、ナカゴーの篠原さんなんて、一挙手一投足で笑える。前々から気になっていた女優さん、深道きてれつさんも出ていて、かなりのスポットがあたっていた。役名も「きてれつ」で、その名の通り奇天烈な役柄。実際の役者さんの人となりは知らないのだが、アテガキとかだろうか。ウンゲツィーファで見たときより長いセリフ。美少女(?)的なキャラクタ感に少々既視感を感じたりもしたけど、思っていたよりストレートにうまい役者さんだと思った。もっといろんな役見てみたいな。なんとなく髪が長いほうが好きだ。あと、裸足が似合う。ほかの俳優さんたちもいい。主催の国吉さんも、なるほど、名前をよく目にするわけだ。自身が演じた役も見ごたえがあり、このヒトを見るだけも価値がある。逆をいえば、演出面で唸るようなところが少なかったように思う。キャラクタの深みが、役者さんの裁量に左右されていた。面白い人は面白いし、表情がうまいひとはうまい。だけど、それ以上のなにか、演出面で妙が感じられなかったかな。はじめに感じたぎこちなさは、そのあたりだったのではないかと思う。

いちばん重点であろう3話目の話をもう少し書きたい。

首吊りをしようとしていた女(きてれつ)と、戦争帰りで、生死の境がわからなくなっていた男が、恋に落ちる。当然、それ以降の対話は、死線スレスレですべてがスリリングになる。しかも空虚な男にとって唯一人拠り所の女は不治(?)の病。

空虚な男が奇天烈な女に惹かれるのはわかるが、彼女の奇天烈さにどこまで必然性があったのかが、少し疑問でもある。空虚な男には、奇天烈なエキセントリックさがないと響かないかもしれないのはわかるにしても、うーん、死の恐怖から強がるためなのか、彼女の思考の原因というか、根拠というか、もう少し掘り下げてほしかったように思う。きてれつさんという役者さんの魅力を出したいがためにも思えたけれど。クライマックスに向かうに連れ、相手に死んで欲しくないと願い合ったの先に、君らしさや自分手なんだっけ?みたいなセリフが出てきて、あれ?これは主体性の話だったかなと、思考が絡まった。そういえば、最初の『セミ人間と恋した夏』の中に、結局は自己満だろ?というセリフがあって、あれ、ここも伏線なのかなと。

DULL-COLORED POP『福島3部作・一挙上演』@シアターイースト

今年の観劇のハイライトになりそうだなと思っていた福島三部作。一部は以前にアゴラ劇場で見ていたけれど、1日通しで見た。福島ものとしては、やや遅れた(こんな言い方もどうかと思うが)発表の作品になるけど、それだけに取材と構成がしっかりしてる。舞台観てもあんまり泣かないほうなのだけど、2作目でこらえきれず。たくさんの人に見てほしい、知ってほしい、と願う反面、舞台の一過性の儚さ。シアターウエストはそれなりの劇場だけど、この作品を見るひとは少ないだろう。出版されるみたいなのでひと安心※だが、これは残しておいたほうがいい。でも、演技の部分がどこまで活字で伝わるのかな。

※谷 賢一『戯曲 福島三部作』而立書房、2019。詳細な注釈から取材のあとが読みとれる。

テアトロコント vol.38@ユーロライブ

コントはアイロンヘッドとかが屋、演劇はゆうめいとミズタニーの会を見た。こんなに混んでいるテアトロコントは初めてだった。かが屋人気かな? 私はいつもどおりにミズタニーが目当て。

ゆうめいは名前をよく聞いていたし、MITAKA “Next” Selection 20thに選出されていた。実体験を作品にするスタイルらしい。いや、それって、こそばゆくないかな。導入で、どうやって見ればいいのか戸惑ったし、ぎこちなくも思えたのだけど、話が進んでいくほど入り込んで行くから不思議……ほぼ低空飛行の私からは何も出ないのだろうなーなんて、やっかみも覚えた。

今回のミズタニーは、超怖かった。心のなかで、「こわいこわいこわい……」とつぶやいてた。何故か車椅子を奪い合う、椅子取りゲーム……設定にも行為にも、必然性がないのはいつものことだけど、ことのほか理解を受け付けない狂気。最終的にどういう理由があって車椅子を奪い合うのか、その糸口が少しでも明かされたら恐怖がやわらいだかもしれない。着地点が見えないことがこんなに怖いとは。だけど、この狂気が演劇には必要にも覚える。

それにくらべると、お笑いは優しいのかもしれないなと思った。かが屋は、なるほど、うまい。導火線につけた火を狙ったところで、確実なタイミングで爆発させ一気に空気を摑む。当人のキャラクタに合った筋書きで、無理なく演じてるように見えた。こりゃ、うますぎるね。

(後日談)この日、かが屋を見たときに「これはキングオブコント優勝しちゃうんじゃないか」と思うくらい鋭さを感じていたのだけれど、残念ながら敗退してしまった。うーん、大会は難しいね。

サムゴーギャットモンテイプ『NAGISA 巨乳ハンター/広島死闘編』@シアター711

えーと、始まって数秒で、タイトルから伝わる以上に、この内容のくだらなさがわかってしまった。男子なので、女性の胸元を見てしまうのはしかたないことだけど、これほど合法的(?)に凝視しても、呵責を感じない。いいのか悪いのか、よくわからない作品だ。

比率的に男性客が多数。受付待ちの列で「巨乳ハンターの列はこちらですー」とか案内されたら、周りに聞こえて恥ずかしいじゃないか……なんて思っていた自分の、なんて小さいことよ。そんなこと思うなら見に来るなよ、だね。恥じらいとか、憂いとか、なにもかも吹っ飛ばしてくれるのが巨乳。ああ。

『巨乳ハンター』は、2年前にやっていて、チラシを見ていた。今回はその続編(?)。日本のラジオの田中渚さん、たしか、このヒトをはじめて見たのがゴシックなドレスを着込んだ麗らかな姿で、それが、巨乳ハンター?……どういう作品になるのか謎でスルーした覚えがある。サムゴーギャットモンテイプも、気になっていたけど、スルーしていた劇団。知っている俳優さんがいなかったりとか、そんな感じでした。だけど、とうとう巨乳につられてみましたよ。オトコだもん。

系統的に、東京にこにこちゃんとも通じるところがあるかしら。かれらより貫禄があるように感じたが、まあ、アングラの正しい進化の範疇かな。世代的には私と同じくらい? 幽☆遊☆白書とジョジョのネタが入っていたのはわかった(ラストはどうみてもジョジョ)。

これだけいい役者さんを揃えてなにをやっとるのか?!。まったく……世界平和とはこういうことをいうのだ。

回転舞台を、演じていない役者が手で回すというバカバカしさ、のわりに、カーチェイスの揺れを回転舞台で表現したり、うなるような巧みな装置の使いかた。役者に「鮪」とか「穴子」とか書いてあるTシャツを着せて舞台を回し、回転寿司に見立てる……なんて、くだらなすぎて最高だ。

役者さんについて書くと……まず主役の日本のラジオの田中渚さん、うーん、これをやっているのなら、なんか、なんでもこなせる役者さんなのでは。

牡丹茶房の赤猫座ちこさん、はじめてみた作品のときは、まだ若い娘さんに見えたが、随分オトナな雰囲気になっていた。アイドル並みのルックスに加え、内からギラギラするほど秘めたオーラを感じる。なんだか鋭さのあるヒトだ。こういうヒトは、なにがあっても、のし上がっていく感じがする。

日替わりゲストが、堀さんの日だった。短い出番の中で、堀さんらしいツッコミの演技。出てくるだけでワクワクする。うまいなあ。なんでも持っていく。

オフィスコットーネプロデュース『さなぎの教室』@駅前劇場

2002年に実際に起こった、看護婦(当時はもう看護師だったか?)4人による、連続保険金殺人をもとにした話。故大竹野正典氏の同テーマを扱った『夜、ナク、鳥』をもとにした作品。この、もととなった作品は戯曲を持っているし、昨年、吉祥寺シアターで上演されたときもに見ていた。でも、本作は、それをもとに小松台東の松本さんが書いたもの。同じ内容ではないので、細かいことはさておいて、あまり考えずに観た。

全部セリフが宮崎弁になっていた(大竹野戯曲は大阪弁)。これは、宮崎弁で上演する小松台東らしいアレンジ。内容的には『夜、ナク、鳥』のあとの話を描いていた。どちらかというと、小松台東らしく、心理的アプローチに切り込んでいた。とくに洗脳のようなプロセスを詳細に描いていたところに、心情描写が巧みな小松台東のワザが冴えていた。距離の近い小劇場、しかもこの作品は、小屋の真ん中に舞台を作り、客席を対面式に割っていたので、どちらの方向からも、表情がはっきり見える。もともと怖い話なんだけど、役者さんの表情がうまくて、ぞくぞくした。

惜しむなくは、もっとも重要な役のヨシダ……発表当初のキャストと代わり、急遽(?)松本さん本人が演じた(しかも女性役を)。ひとつ味がくわわったという感想もあるが、どうしても、女性4人の設定と、看護婦という女性的なイメージが強いところに女装したヒトが入ると、引っかかりを感じずにはいられない。洗脳され、ある意味ではヨシダの被害者のように見える3人の看護婦に対して、ヨシダの旦那さんが「あんたらは卑怯だ」と罵るシーンがあるのだけど……それぞれのヒト、視点を変えると倫理と見える景色が変わる。ヨシダに人間臭さ(家族のことや旦那との関係)を描いていたけれど、それでもヨシダの、なんというか極悪性の印象を、どうしても色濃く感じてしまう。それは、男性の語調の強さも相俟って、そう感じてしまったのではないかな。ちょうどアフタートークが、ブス会のペヤンヌマキさんの回を見たのだが、女性として演じていたけど、凄むところなど、どうしても男性を意識してしまった。演じているのが女性ならば、もっとマイルドな語調になったり、静かな口調でも毒味をが混じっていたりとか、女性らしいアプローチが出たのではないかな。あと、もともとのキャストは森谷ふみさんで、それも見てみたかったなあと言うのが率直な感想。

それにしても、全員、一級の役者さんである。それに、いつも松本さんの演出は、心情の細やかさを描き、役者さんのうまさを引き出して見せてくれるので、演技だけでも見ごたえがある。

吉本さんは、ロジック『滅びの国』の主演だった。高い声で印象的なところと、でも、締めるときはここぞって表情をしていて、見入ってしまう。毎回唸らされる役者さん。

鵺的『悪魔を汚せ』@サンモールスタジオ

自他ともに好評だったという作品の再演。

率直な感想、『奇想の前提』とモチーフが似てないかな? 姉と妹の関係とか。親の4兄弟の設定も短編『修羅』に少し似てる(名前に春夏秋冬が入ってるところとかも)。しがらみにまみれた家族や、怪奇的なモチーフは好んでつかっているのだろうし、なくてはならない要素なのかな。

ただ、鵺的の魅力というか、ドロドロした家族もので、ホラー的で……これらの特徴が、本による部分が多いと思う。いや、たしかに、俳優さんは良く、とくに3兄弟の演技が作品のカナメになっていた。だけど、たとえばシェイクスピアとかの古典、ほかの作家が書いた脚本を上演したら、明確に鵺的だといえる特徴を出せるだろうか(ロミオとジュリエット的な、お家の話なんてのは合うかもしれないが)。怪奇的なシナリオのほかに(もしかして過去にやってるかもしれないけど)、劇団としての色をどこまで出せるのだろうかという考えが頭をよぎった。

あと、いいヒトがいいヒトのままで、悪いヒトが悪いヒトのまま終わっていく感じがして残念。キレて雰囲気が変わる人物は出てくるのだが、それもストレスが飽和したからだったし、最初に登場したときから、度重なる葛藤のなかにいるのに、基本的に性格に変化が出たヒトがいない。ひねくれた家族の中にいながらも善良に育った姉が、悪(?)そのものの体現である妹に、どれだけ汚されていくのか……という展開になるのかな?と期待していたが、そういうことじゃないか。姉が正義をつらぬいたのは、ある意味では救いなのか。そして、3兄弟の姉がロウ、妹がカオス、兄がニュートラル(あえてメガテン的に)だと捉えても……兄のスタンスになにかしらの変容が欲しかった。かれの思想は筋が通っているのだけど、変化がないのがもどかしい。

前評判のとおり、鵺的の珠玉の作品である。ラストのめまいを覚える混沌とした展開、演出は圧巻。まあ、とくに小劇場のミューズ福永マリカ嬢のキレキレを目の当たりすることができて満腹である。どんどん迫力が増していく演技、段階までエンジン気筒を持っているのだろう? 振り切った演技は無双。ああ、あんなマリカ嬢にだったらコロされてもいいぜ……とか思ってしまった。

犬飼勝哉『ノーマル』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

MITAKA “Next” Selection 20th選出作品。わっしょいハウスの作品も結構あるから、もっと早く選ばれていてもいいんじゃない?なんて思ったけど。

なんだろう。この作品を文字で読んだら、そこまでインパクトがでるかどうかわからないけれど、序盤の緩やかな会話でもニヤニヤが止まらなかったし、後半の凍てつく展開にヒリヒリする。温度……どこまでも燃え上がず、適切に調整された温度。突拍子もなく感情になだれ込みそうなシーンもあるけど、発火しない。これだけ均衡の取れたバランスは、数学的か、黄金比的な、なにか計算が緻密にされているようなイメージを受ける。建築的に設計図でもあるのではないかと思ってしまう。

自分が「普通」であることにコンプレックスを抱く美大生、ナオの、普通から展開していく話。冒頭の入りの普通さ、普通になんとなしに退屈を覚える若人……という、割合、普通の構図……から、ゆるやかに時間が過ぎていく。もしかしてこの普通の感じを最後まで貫くのかという、逆ロック精神のような展開が頭をよぎったが、はてさて。ナオの、「私、普通だから…」のエクスキューズをつけながら、でも変化を求めたくないような保守的な部分を持っているのが垣間見えるのも、いたって普通な心理が滲んでいて面白い。普通から始まるアレやコレ。言葉の練回しの妙。

舞台のセット、演じる場所と場所……、随分と隙間の空間があるように思えた。すこしスカスカな感じ。だけど、その余白が、独特の温度と空気の流れをつくりだしていたようにも思える。転換時に役者がいちいち小道具を持って捌けるのも、はじめは少し間延びして見えたけど、しだいに馴染んでいく。このあたりの時間のつかいかたも、空気の摑みかたに役立っていたのかも。

ある意味、劇に入り込めなかった。なんだか、そのへんにいる知らない人の会話が聞こえてきてるような、一緒の隔たり……近いけど、自分とは交わっていない時間……があるようで、客観的? 俯瞰的?な、だけど、ここにいる人たちは、(作品だとわかっているけど)本当にそこで生活しているような感覚が湧いたりして。舞台へのめり込むんじゃなくて、パラレルな世界を、それこそ一緒に並んで時を進んでいるよう。そこにある現実感を、実感する。登場するかれらを、舞台の上の世界を肯定したくなる。

以前に見た、犬飼さんの『サークル』って作品が好きなんだけど(部屋の中にいる男女が、自分たちの住んでいる街を淡々と語っていく話)、架空を、想像できるように浮き上がらせてくれる。フィクションなんだけど、舞台の上の世界に現実感がある。そんな体験を、またこの作品で感じた。想像を掻きたてる……って言葉を使うとテイのいい表現でなんかイヤ。ふわっと浮き上がる、見えていない光景の描きかたが稀有で、想像掻き立てる表現をする作品はほかにも多々あるけど、だけど、また独特なんだよね。とっても説明しにくいのだけど、想像のくすぐってきかたが、ほかのだれとも違うんだよね。実際に体験しないとなんともむつかしい。本当に劇場に行かないと感じられない貴重なモノだと思う。

そして、「この役者をみよ」といわんばかりの、ひとりでも何杯もご飯がすすむような役者さんが5人揃っておるわ。松竹さんの、吹き出しそうなセリフも真面目に放つ感じはなんだろう。ほりぶん、ミズタニーと、ポーカーフェイスなコメディエンヌの姿に期待が止まらない。西山さん、マレビトの会を見たときに、抑揚を抑えてもしっかり画の作れる人だということはわかっているし、こういった、繊細な作品の空気を操るのに非常によい。浅井さんの面白さはもういうまでもないし、テニスコートの神谷さん、このセリフでそこまで笑いを取るかという骨太さを見た。後藤さんのぴりりとくる役。一気に空気を変える力量。

地蔵中毒無教訓意味なし演劇vol.11『ずんだ or not ずんだ』@高田馬場ラピネスト

若手アングラ劇団を牽引している地蔵中毒。評判も人気も高まって、たとえいま解散しても、伝説になるのではないか。思いかえしてみても、内容がぜんぜん思い出せない。いままで見た作品も、検索でタイトルを調べてみてもあらすじをまったく思い出せない。いや、そこから思い出せるものでもないタイトルだし。この「無教訓意味なし」の実現たるや、恐ろしいものがある。

ひさしぶりに地蔵中毒だった。なんか劇団全体が普通にうまくなってる。それが、いいのか悪いのか、なんとも難しい劇団。はじめて見たときの、汗臭い小屋、チープな暗転、のそのそソデから出てきて変なこといってハケる役者……それはそれで奇祭のテイをなしていた。うまくなっていくと演出に目がいく。うまさがなければ雑味で笑いになったりもする。だけど、ある程度のうまさ見えると、狙って笑いを取るうまさも必要となってくる。そのラインの鬩ぎあいかしら。とくに、この奇天烈な筋書きとセリフだけで面白いので、それを肉付けしてさらに面白くするには、相当の実力が必要となってしまう。逆に狙ってしまうと、引いてしまうかも。微妙な駆け引きをしているところじゃないかな。

アングラ侮るなかれ、お下劣なセリフをいう、個々の声をよく聞けば、声帯を鍛えているいい声だとわかる。役者さんが、着実に自分のポジションを見つけているのを感じたのも、なんだかほほえましい。音響と証明が充実して舞台然としてきた。暗転を逆手に取った演出(暗転芸というか)も確立していた。暗転中に脈絡なく目薬をさすとか、無意味にもほどがあって素晴らしい。水玉模様があれだけ出てきて草間彌生に触れないのはおかしいので、どこかでオチに使うだろうと読んでしまった。

ジェット花子の荒威ばるさんも久々に見た。堂々とした立ち振舞と、通る声と。相変わらずうまい人だ。出てる作品はアングラが多いかなと思うけど、演技は正道に見えるんだよね。歌のお姉さん的な、暗いところの一切ないような役とかキレイにこなすように思えるのだけど、どうだろうか。それと、天狗の姿があんなに似合うのはどうしてだろう。所見だけどモリィさんというかた、役者じゃない(?)のかな。普通にうまいなと思ったんだけど。まあ、でも、一番のウリに焼きついたシーンは、あのアレ(破廉恥で活字にできない)されてるシーンだけど。

カリンカ『その美女、自覚なし!』@シアター711

さて、開演前に置かれたセットを見て、あれ? 時代もの? 最初の明転で、あ、忍者モノ? チラシのイメージとまるで違ったので、戸惑いつつ……作・演出がアナログスイッチ、上演時間80分尺となると、気負わず楽しめる感じかな。

忍者モノでもあると同時に、これはバイアスものである(造語)。まあ、忍者設定だと、どうしてもコミックになってしまうバイアスがかかっているのだが、もうひとつのバイアスはこのタイトル。少なくとも、登場人物の1人は美人(当然主宰の橘花梨さんがそれを担うしかないだろう)という見方をしなければならない。こういう設定がタイトルから透けて見えると、その役の人は美人役をするという先入観?を抱いて臨まないとならないというバイアスである。

たとえば『マイ・フェア・レディ』(石原さとみが演じた舞台を見たことがあったな)で、粗暴な少女が出てきても、このヒトは実は美人なんだろうなという、予定調和とか、ある程度の暗黙も生まれる。橘花梨さん自身がキレイだけど、この人はキレイなヒトの役なんだな、という設定を踏まえつつ見なければならないというのは、少しノイズが交じる。アイドルは弄っちゃいけない的な。ついでに、なんというか、美人の女優さんに、舞台上でも美人の役として出て、更に美人として扱われるのに……なんていうのかな、僻み根性というか、雑念が生まれたりするのだ。

あと、美人設定とすると共演者の女性はコントラストをつけないと成立しない。まあ、このへんは完全に趣味かもしれないけど、Q本さん、だいすきなんだよね。個人的な趣味はQ本さんのほうがタイプです(キモいですか? ごめんなさい)……役柄的に、感情が豊かだったしね。

それぞれの忍者の持つ忍術が、自分の劣等感をバネにして体得したもの……という設定が面白い。感情をうまく言葉にできないヒトが、遠くのヒトへ司令を伝達させるテレパシーの能力を持つ。ブスであることに劣等感を持つ人が、妖艶の術を取得している……など。

いや、しかし、この設定なら、彼らの母校である忍者学校では、強い忍術を身につけさせるため、日々人格攻撃を繰り返し、劣等感を植え付けさせるような凄惨な教育がされていたのではないかと……そんなドス黒い想像もできるのだが、アナログスイッチのさんの脚本はいつもやさしいので、そこは安心な出来だった。

ちなみに、アフタートークが小野寺ずるさんの回だったのだけど、いやあ、凄かった。だいぶ持っていかれた。あと、シアター711は後ろの方から見ると、本当に狭く見える劇場だね。

Ammo『調和と服毒』@上野ストアハウス

画家ラファエロ工房をモチーフにした、非常に面白いテーマの作品。俳優さんは知らないかたが多かった(でも実際に出てきたら、どこかで見たなってかた)が、チラシを読んで、これは知識を得るためにも見ておかないといけないと確信。

どうしても時代もので、しかも16世紀というと、荘厳なスケールをはらむテーマである。小劇場の大きさでは、どうしても空間が足りない。セットや衣装なんかも、作り込まないと軽く感じられてしまうだろう。それはアフタートークのときにも話題に出していた。しかし空間のハンデがあったとても良く立ち回りを考えていたと思う。後ろのほうの席が広がりが感じられてよかったかもしれない。

最初に苦言をひとつ。幕が開けて、冒頭でラファエロ工房の弟子たちが、色の塗り方について議論をしているシーンで始まる。そこに、新たな弟子だと名乗る男が現れる。いまや生え抜きの美術工房のラファエロのところには、連日弟子志願の輩がひっきりなしに訪ねてくる。最初にいる2人は、この男もその類いだろうと、頭からぞんざいな態度で追い返そうとする……時代や、工房の説明、人物のあらましなど、コンパクトにまとめ、コミカルに説明してくれる、観劇者にやさしいシーンなのだが、私はこのシーンがいまいち面白いと思えなかった。2人の弟子が色彩について話しているうちに、テンションが上がって笑い合うのだが、この議論の内容の面白さがわからなかったのと、弟子入りで訪ねてきた男を追い返すため、叫んだり声を荒らげたりするところがあったのだけど、その必然性がいまいちわからない。中盤から、議論が加速していくうちに声が大きくなる、また、この時代背景もあってか、勿体つけたような口ぶり、あるいは芸術家気質の頑固度気取ったような口調が馴染んでくると気にならないのだが、基本的に、必然性のない絶叫などはあまり好かない。あとの展開が素晴らしいので、導入がもう少しすんなり入れたらと、思った。

話の舞台は画家ラファエロの工房。ラファエロ工房は、いまや教皇に気に入られ、枢機卿のパトロンがつき、ローマで最も勢いのある美術工房。人気や評判はミケランジェロをも追い抜いたが、ラファエロ自身、自分の実力に不安と疑問を抱いている……ラファエロの作品といっても、この時代は工房の弟子たちも交えて作ってたりするんだよね。工房の方針(?)というか、組織のありかたを描いているところが面白い。弟子や親方、そしてラファエロが、作品に議論を重ねあって、作品を作っていく。ラファエロ工房といいながら、非常に組織として、また、クリエイションの場所として成熟している。そして、パトロンがいる以上、単に芸術の追求だけをしていられない。顧客のニーズに寄り添わなければならない……それは美を追究する画家たちにジレンマも生じさせる。そして、弟子の中には、この時代男性とともに仕事をすることが許されていなかった女性の画家の姿も登場し、物語のカナメを担うことになる。16世紀を描きながら、理想と現実の葛藤、コミュニケーションのありかた、フェミニズムが垣間見えて、現代的にも捉えられる。

工房の方針に議論を取り入れたのが、この作品の一番の成功だろう。議論と銘打つことで、紡がれていく膨大なセリフ、工房での膨大なセリフの応酬が、無理なく必然性を帯びて構成されていく。演劇という、言葉、言葉、言葉……の世界で存分に表現できるわけだ。

議論のテーマが、「美とは?」に行き着いたところで、若干のヤバさを感じた。これを持ち出してしまって、さてどうやって、帰着させるのか。いやあ、永遠にわからないんじゃ無いの?ってテーマでしょう。しかし中途半端な落としどころで幕をおろせば作品が死んでしまう。議論である以上、なにかで論破しなければ見る側は納得できないし……はてさて。私は、納得……うーん、難しいかな。まあ、これは尽きない議論だし。

ちなみに、赤の絵の具に血を混ぜるという話があるのだけど、学生時代に似たようなことをした友人がいて、なので、酸化して色くすまない? とか静脈は心臓に戻る血液だから動脈から取らないと鮮やかじゃなくない?とか、雑念が入ってしまった。

『暴力の歴史』(フェスティバルトーキョー)@東京芸術劇場プレイハウス

まるで映画を見ているような作品だった。後方の壁一面に白いスクリーン置かれ、劇中で撮影している光景が映される。こういったのは、モダンスイマーズ、本谷有希子さんの作品でも見たかな。吹越満さんの『ポリグラフ』は影を映してたっけかな。あくまで前述の2作品は、劇中で映像を効果として使っっている感じだったけど、『暴力の歴史』や『ポリグラフ』は、映像も舞台のひとつのように使用していた。色彩の使いつかいかたも、映像だけとしても耐えられるくらい練って調和しているように見えた。映像が全部モノトーンなのもよかった。それがフィルム的に感じた理由かな。映像効果を使う技術は海外の方が進んでるのだろうか? カメラも機材も小型で安価になってきてるとはいえ、劇中取り入れていくには、それなりの規模、映像に知識のあるスタッフが必要になるだろうし、演技の仕方もバリエーションが増える。小劇場では、なかなか実現しにくいかもね。

『暴力の歴史』とは、なかなかに大きなスケール。ものすごい端的にいうと、大学に通う男性が知り合った男性から性暴力を受ける話。主人公はゲイで、家族から理解されていないと感じている描写もあり、そのため彼は田舎を出て一人都会に住んでいる。声をかけてきた男性はカビル人(アルジェリアの少数民族らしい)で、主人公はインテリであり、民族にも理解があるため、男に差別意識はなく、むしろ、かれを性的に好意的に捉えた。そして、部屋へあげてしまう。主人公がシャワーを浴びているあいだに、スマートフォンがなくなる。主人公はそのことを問いただすが……

主人公に、男に対しての差別意識、嫌悪はなく、むしろ好意的であったところや、それでも暴力に対してはひどく傷つき、前向きに考えることができなくなるくらいの精神的打撃を受けているところ。また、フランスは移民問題が根深い。私も、カミュの映画や、サッカーのジダンが頭突き下問題とかでなんとなく知ってはいるが、日本人だとピンとこないところも多い。民族にたいする暴力。性の暴力。まあ、この先の、外国人労働者受け入れとかで、まずいことになる可能性は大いにあるので、今のタイミングで、日本上映する意義は大いにある。

これ、ゲイでなくて、例えば、主人公が女性で、ナンパしてきた相手がちょっとタイプで、部屋に入れてセックスしたあと、暴行の被害にあった……とかだともっとシンプルかなと思ったけど、シンプルってなんだよ。

serial number『コンドーム0.01』@ザ・スズナリ

serial numberは風琴工房のときから何作か見ている。完全にノンフィクションとはいえないものの、事実の取材やデータ、史実をもとに作品をつくっているので、知識を得る作品としても、面白い作品を作り続けている。

より薄い0.01mmコンドームの開発した会社の物語。開発チームの面々が開発に向かって情熱を傾ける姿勢を描く……ただ、全体的に少し違和感を感じたのは否めない。ひとつは、開発の社員の意識がやたら高いこと。これは、ただ単に私の視点からに過ぎないかもしれないのだけど、開発に対する意識のベクトルが、割合登場人物がいるにもかかわらず、モチベーションに関しては、みんなが一様に高く、むしろフラットすぎるように思えた。まあ、一流の会社で、そのトップ社員を描いているのだから、意識低いヒトはいないということなのだろうけど。ああ、でも、やっぱり、中小企業しか経験したことのない身からすると……ううん、そこに突っ込んでたら話が進まないか。でもワンマンっぽい会社なんだけどな。社内の空気悪くならないかな。男性しか登場人物がいないのも、なんとなく不足を感じた。実際に、こういう現場に女性はいかったのかな? だとしても、女性の語るセリフが欲しかった。作者は女性なんだけどね。あと、コンドーム制作会社といっても、そこまで性にオープンかしら。ひとりの社員が童貞であることに悩んでいるのだが、科学技術者として働いてるのにそこにそんなに拘泥する?かなと、なんだかスッキリしない。うーん、私が男性の一般的感覚とずれてる可能性はおおいにるので、なんともモヤモヤしてるんだけど。そして、一番気になるのは、CS委員会を設定して、なぜ0.01mmを開発するのかの意味や、対外的PRの方法を話し合うシーンが軸なんだけど、うーん、話し合いの結論が、コンドームの必要性や意義の話という感じがした。望まない妊娠を防ぎ女性の身体を守るため、男性の意識から変える……というのは、コンドームの意義性に落とし込んでしまっていて、なぜ、0.01mmの開発するのか。なぜ、今以上(0.02mmはすでに開発されている設定)に薄くする必要性があるのか?についての決定的に説得力のある内容になっていなかったように思えるのだが、どうだろう? 社の技術力を見せるため、や、快感をより高めるため、と、割合下世話になるかもしれないけど、そのあたりの観点がスルッと抜けているのでは。男性側の意識へも訴える商品を作る、という方向性へ議論を持っていくなら、どうしても下世話なところにも視点を向けないといならないのではないか。社の大プロジェクトなのに、上層社員の、かなりパーソナルな意見をもとに会議が進んでいくのも、うーむ……。避妊具を語るのに、登場人物個々の性体験を話すシーンがある。もちろん、避妊具を開発するのに、使用する行為を分析して、開発の意義性を掘り起こそうとするのは妥当。だけど、初体験を持ち出し、極めて純粋なパーソナルな物語性から会議のシーンへ持っていく。初体験は性交体験の1回で、コンドームの使用はそのほかの多数が圧倒的に対象になるはずだし。演劇的というか、意図的に物語性を紡いでいこうという姿勢がちょっと透けて見えて、むむむ……私が冷めているのかもしれないが、企業ならば、かなり冷めた目でキャッチコピーを決めたり、統計的なデータから決定させたりするんじゃないかなあ……情熱がないといい開発はできないのかなあ。というか、もっとマーケティングの人とか、広報とか、外部の代理店とか入れたほうがスムーズにいかない?少し前にみた『調和と服薬』でも、美とはなにか?の問いに、見る手側が物語を抱くから……みたいな議論が出ていて、うーん、いや、物語の重要な演劇側からの意見かな、という気もしてしまうんです。童貞社員が、EDであることを、自身の親との関係に原因をもたせてたけど、やっぱりわかりやすい物語性を持っていかないと話として成立しないかな。以前働いていたところで、『女性の悩み』というとシリアスな感じするけど、『男性の悩み』と書くと、しょうもないシモのことばかりの感じがする、といっていた同僚がいたのだけど、うーん、そうだよね。でも、わりあい下世話なところに実生活はあると思うのだけど、うーん、私が下世話な気持ちで見にきてしまったということかな。

風琴工房、serial numberも少しコテコテな演出をするところがあるけど、性に直結するテーマだけに、テーマ的に不快になったりとか、コミカルにしたところとか、あるのだろうか。コンドームはあくまで男性的に描いたからコミカルなのかなあ。風琴工房時代に、女性用ナプキンの開発をもとにした『アンネの日』という作品も作っていて、それは見逃してしまったので、どういう感じだったのかと頭をよぎる。あと、会社にビール置いてあるのはダメだろ。

鳥公演『終わりにする、一人と一人が丘』@シアターイースト

『鳥公園のアタマの中展2』で本作のリーディングが行われ、この戯曲(その時点での)も販売していた。購入してたものの読まずにおいた。舞台を見てから読もうと思って。私事をいうと、この日非常に体調が悪かった。強めの腹痛で、熱も出ていた。なので、観劇後のメモもほとんど取れず。ただ、非常に面白かったのは確かだけど。グッタリした体調で見る作品ではない。

もう、西尾さんには岸田國士戯曲賞とかをあげてしまってもよいのではないか。難解であり、好き嫌いが分かれるだろう。しかし、見ている景色が数段(なにから比べているのか不明瞭だが)上をいっている感じだ。劇場という枠で収まるのか。戯曲もそうだが、劇自体が活字のようなフラットな表現にも感じるし、演技をみれば空間的な奥行きも感じ、セリフたちは、脳のシナプスの末端をくすぐっているような、微細で繊細な論議をに感じる。作品に名誉などは必要ないのかもしれないが、賞という存在には否応なしに重みが生まれる。なんでもあっても西尾さんの名前を演劇史にとどめておいたほうがいいのではないか……なんて思う。

鳥公園の作品は、なにかものを食べることが多いのだけど、今回はうどんでした。

劇団鹿殺し『傷だらけのカバディ』@あうるすぽっと

柿喰う客、鹿殺し、アマヤドリ……あたりの劇団はは、私が演劇を見始めた頃からすでにメジャーな劇団というイメージ。天の邪鬼な私は大衆的なものに少しアレルギーがあるので、じつは今回が初見。カバディがモチーフの作品。カバディ協会にちょっとお手伝いさせてもらってることもあるので、見にいきました。

冒頭の展開がやけに速いのだけれど、膨大な情報量を詰め込むには、間を削ぎ落としていかないとしようがないかと思う。7人競技のカバディメンバーをひとりひとり集め、バックボーンを描いていく……という筋書きにはどうしてもスピードがいる。歌とダンスのパフォーマンスが入るので、短い場面場面で喋るセリフの量の多いこと。稽古の大変さが忍ばれる。意地悪な教育委員会、東大理系の天才、紋切り型の設定に、うーん……と思う点は少なくないが、そのへんはコミックだと思って目をつぶるのが大人だろう。(これは自戒もあるけど)インドに対するイメージも、それっぽ過ぎないかな。

舞台にカバディのコートが描かれていた。移動するパーテーションもカバディコートのデザインで洒落ていた。でも、ユニフォームの「鹿神SEVEN」のロゴはもう少しかっこよくていいんじゃない? せっかくだから、4面客席で、コートを囲むように四面客席の舞台とかでも面白いかなと思った? あうるすぽっとが無理なら新宿FACEとかで。

忍者の末裔が忍者タートルズのTシャツ着てるのは笑うけど、東大の天才がハードロックカフェのシャツなのはどういう意図かな。その人物に「ムダなことをしたい」なんてセリフをいわせていたので、アイロニーともとれてしまうが、さて。単にオレノグラフィティさんの趣味かしら。

前述した、ある程度の紋切り型の設定は差分して見ていた(そのあたりを逆手にとったりする作品が好きではあるのだけど)、けど、野球で夢破れた主人公が、日本代表になりやすいカバディで一旗揚げようという筋書きも、若干失礼に思ったりもする。事実がそうであっても。そして、能力があるヒトを集めて日本代表に……とはいっても、素人だし、うーん、身体能力高くても、そこまで甘くないんじゃない? コミックだとしても。

カバディの動き、特にアンティの動きがダンスに鮮やかに組み込まれてたのが快。レイダーは、フランケンシュタイナーを入れていたので減点。時間のなかで、マイナースポーツのルールに違和感を持たせず説明しながら展開していく手法が上手い。

フロム・ニューヨーク『こまかいのの貸し借り』@OFF・OFFシアター

うまいなあ……なんて、キャリアのある俳優たちにいうことではないけど、でも、構成のうまさと、話のズラしかたのバランス、なんというか、おみごと。小劇場らしいこぢんまりさと、全体に下品さがただようものの、コントとして見ても高級。ブルーアンドスカイさんの、芝居してないようなすっとぼけた感じがどういう次元なのか。素か。高度な演技だと思うのだが、いかに。伏線を貼ってるなという感じは伝わるものの、それを感じさせないのは、すっとぼけた感じが堂に入っているし、いや、単に面白くて伏線のことなんて忘れてしまう。

前回公演で好評だった「カーテンが外れて楽屋が丸見えになる」くだり、今回もあるのかななんて期待していたら、前説でカーテンを開けて楽屋を見せてしまうという回収。面白いモノを見たいときに、絶対ハズさない、安定のフロム・ニューヨーク。

小松台東『ツマガリク〜ン』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

小松台東は、いつも宮崎弁で作品をつくっているので「ツマガリクーン」はなにかの方言かと思ったのだが、そうでないのね。津曲さん。

モチーフは電材屋さん。小松台東主催の松本さんが電工で働いていたことがあるそうなので、電気工事関係の設定はほかの作品にもよく出てくる。あと、不倫の話も多いかな。大人の理屈で片付けられない恋愛感情……が描かれることが多い。間接的に子どもの存在があるのことも多い。

小松台東作品、結局なにも良くはっていない。転がる石のごとく……なんて言葉をあてがうのは恥ずかしいが、終演後に思い浮かんだ言葉はそれ。ただ日々がそこにある。ちょっと前に見た鳥公園の作品なかで、いつ終わりになるのか、いつかどこかにゴールがあると思って生きていているけれど、実際はある日突然気づかないうちに幕を閉じる……といったことが、この作品を見ながらよぎった。転がってく。事件は起こる、状況は変わる。だけど、ドラマのようにハッピーエンドが訪れて幸せに暮らしました……では収まることがないはずの人生。華々しいゴールは想像の中ででしかない。これが、人生を描いているんだな、と思った。

人手不足にあえぐ小さな電材屋の中で、目が回るような忙しさの中で、仕事は減らないけれど、仕事以外の厄介事が次々と舞い込む。ほんのひとつの出来事がなまなましい。今回は、社長の息子としてはたらく津曲くんの成長にグッときた。特にヒトの上に立つとはどういうことか……劇中のほんの短い間に、心境が豊かになっていくのが見てとれる。終わらない日々……に、それでもどこかヒトの温もりをよりどころにして歩いていく。なまなましく、心強い。

温泉ドラゴン『五稜郭残党伝』@サンモールスタジオ

五稜郭で敗戦した幕府軍の脱走兵の2人の話。安住の場所を求めて北海道を逃走するうちに、迫害され、搾取されているアイヌの生活ぶりを目の当たりにし、次第に和人(北海道以外のヒト)に憤りを覚えていく。主人公の脱走兵たちを追う官軍も、もとは名声のために彼らを追っていたものの、疲れ果て執念で追い続ける。最終的になかば親近感のようなものを抱いていく。ルパン―銭形の構図。

非常に面白い話だった。現在、なお残り続けるアイヌ民族を考える上でも、また日本国内にとどまらない、ヘイトや移民問題を考えるうえでも、参考になるだろう。偏見の外にいるヒトたちがいかに傲慢か、どれほど繊細に考えていかなければならないか。

劇中、アイヌから搾取している和人が、「なぜアイヌを虐げたいるのか?」と問われ、「アイヌだから」と答える。以前ニュースで、白人至上主義の人に黒人が「なぜ私たちを嫌うのか」と問われ、最終的に「わからない」と答えたという記事を読んだが、民族間の差別の根底って、かなり思い込みが強く、幼稚な論理なようでもある。ほんの違和感。すこしの感覚。でも、それは本能的に、人間に大きく作用してしまっている。克服するには知性と倫理しかないように思えるのだが……偏見をつつみこむための知性は、幼稚な本能にずっと勝てないでいる。

とまあ、原作からして素晴らしい。北海道を北上するスケールが大きい話なので、サンモールスタジオより大きいところがよかったかな。温泉ドラゴンはこれまでに2作見たけど、どちらも温泉ドラゴンの劇団が書いた作品ではないため、シナリオでの特徴と、劇団とどう融合しているかが、まだわからない。男臭いダンディな感じがするかな。

中野坂上デーモンズの憂鬱『髄』@OFF・OFFシアター

デーモンズの観劇も結構回数を重ね、いぜんより随分ステージが上がったなあなんて思う。

デーモンズの作品の中に、「書けなかった」系と呼んでいる(勝手に)作品群があって、それはその名の通り、本が書けなかったっていうのを入れた、もしくはそのもので作品にしてしまったモノ……当日パンフや、冒頭でナレーションにお断りが入っていたり、セリフの中であかしたりする作品たち。デーモンズは年間の公演数が多いので、そりゃあ考えがまとまらんでしょ……という感じもする。だけと、「書けなかった」系は、私的にするとハズレ感がある。まあ、今回は逆に「書けすぎてしまった」らしいのだが。

好まない理由のひとつは、メタ的な要素の好き嫌い。私はメタ要素が入るのがあまり好きじゃない。それに、よほどうまく組み込まないと、どうしても作品が雑に見え、萎えてしまう。どうしても内輪ネタっぽくなるのも好きじゃない。そして、書けなかったとエクスキューズが入ることで、ここが舞台、演劇をしているという構造を意識してしまう。それは、すなおにストーリーを楽しみたいと思うとき、なんとなくノイズに思える。これは、私が演劇人じゃないからかもしれないかな。観客に役者さんとか、演劇関係者っぽい人たくさんいたけど、そういったかたにはアレルギーないかしら。

もうひとつは、デーモンズは内容はアングラ的だけど、技術はかなり正統派。話の構成も演技の演出も、根底にある確かさが毎回感じられる。素直に実力を見てみたいという希望がある。

はたして書けなかったのか。今回は構成がまとまりきらなかったらしいが、毎回、書けているじゃないか。というか、幕が開いた時点で、書けているかどうかは、見る側にはわからない。話の良し悪しはあるだろうが、時間が来て幕が閉じた時点で、そこまでが台本になるのだから。

書けなかったエクスキューズをいれるのも演出のうちだろう。今回の話の構成上、必然でもある。でも、書けなかったエクスキューズありきからの制作になっちゃってないか。冒頭にエクスキューズを入れずに始めたほうがスマートに思えたし、多分、成立させることがでたのでは。メタ的な構造はこっそり忍ばせる感じでいけないだろうか。

ものすごいセリフの速さと繰り返すマイム、あと、客席に向かっての喋り。セリフの速度を上げると抑揚が殺されていくし(でも、役者さんの力量によってはしっかり表情がつくからすごい)、絶対ストレートにやって完成度高いものになるはずなのだけど。言葉の選びかた、作り込みがすごく魅力的で、もっとはっきり聞きたい。

なんだか不器用……と思えてしかたないところもあるんだけど、まあ、それが魅力のようでもあり、また、丸くなっても仕方ないけどね。デーモンズ、なんだか爆発する直前のジリジリした状態に思える。なにかのきっかけで一気にヒットする感じするんだけどな。

ちなみに、「誰だと思う?」のセリフに、即座に「田代まさし」が浮かんだ。そして合っていた。なぜわかったのか自分でも驚いた。でも、あの流れからしたら割合素直にそう思った。

二兎社『私たちは何も知らない』@シアターウエスト

平塚らいてうの話。名前は知っているものの、詳しい来歴、生涯は知らなかった。青鞜の編集をしていたヒト?くらいの認識。なので知識としても見ておいたほうがいいと思った。とくに、いまフェミニズムの風潮なので、現代にどう繫げてくるかも鍵に思えた。

知らないくせにナンだけど、らいてうってスキャンダラスなヒトなイメージがあったので、もっとドロドロした人間模様が描かれるかと思ったが、衣装がすべて現代風にしていたし、さっぱりした演技になっていたため、爽やかな作品になっていた。演出が見事。青鞜の序文をラップにして流していたのはあんまり好みじゃなかったけれど。

女性問題……フェミニズムについて話しにくいなと思うのは、まず、私が男だから。私はずっと女性に生まれたかった(性的乖離があるわけではないが)ので憧れもあるし、男性より女性のほうが劣るなんて、思ったこともない(肉体労働や、空間認識においては感じなくもないけれど)。しかし、古い因習の家庭で育っているため、亭主関白的なことや、嫡子思想的な部分を、家族、親族に感じることも多々あったし、私自身、意識化下で影響を受けているのは事実だろう。無意識に女性蔑視なところもあると思う。因習を引き合いに出すのは非常に不誠実ではあるが、これはフェミニズムに限ることでなく、民族意識、国家意識、差別全般にも言えて、理性的には人間は皆平等であるとわかっているが、旅行にいくと、この人は中国人かな、韓国人かな?なんて、気になったりする。もちろんそれで、なにかがかわるわけではないけど、どこか意識している。知性と本能的な矛盾。そもそも、異性と同性を意識せず完全なる平等で接しうることが可能だろうか。

らいてうが青鞜を伊藤野枝に譲り退いたあと、らいてう時代の編集と、野枝の編集とのが対比的になるも、果たしてらいてうが正しいか、野枝が正しくないのか、私にはどちらも意見としては理があるし、フェミニズムに議論するに答えを出すことが容易でなく、女性たちの意見もおおいに揺らいでいる。女性の進出を妨げるのが古い因習に囚われた女性であったりもする。肝心なのは答えを出すことでないし議論を絶やさないことなのかな。そして、やはりフェミニズムも、国家の利益によって犠牲にされていく……

キャストはほぼ女性なのだけど、変えるべきは男性の意識からのような気もするなと思う。客席は年配が多い。まず若い男性に見てほしいし、妙齢のおじさん、おじいさん諸君、いったいどう感じたのかな? 舞台作品では、けっこう女性の性やに対して率直な主張(セリフ)を聴くことができるのだけど、そもそも、ここで「女性もそう考えるんだ」なんてことを認識する時点で、世の中の情報が閉ざされているわけで、この男性側の認識はまだまだ遅れている。

二兎社は、鴎外の階段、ザ・空気、そして今作と、時流に乗って問題提起している痛烈な作品を発表している。表現の自由があるならば、『ザ・空気』とか地上波で流したりすればいいのにな。

ワワフラミンゴ『くも行き』@シアターイースト

いま、演劇界でワワフラミンゴが一番狂気じみてると思うのだけど、どうだろう? 地蔵中毒あたりも狂気っちゃ狂気なんだけど、ベースには笑いを作っている感があるし、ストーリーを組み立てている。ワワフラミンゴも笑えるだけど、入れ込んでいる要素ひとつひとつ、そこ笑いが取れなくともいいや的な、なぜ盛り込んだのかわからないセリフが膨大にある。この間合いを保ち続ける狂気。あなたはあなた、私は私。だれでもオンリーワン……を世の中のしがらみ、雑念なく体現する劇団、ワワフラミンゴ。「かわいい」を全面的にまとっているあたり、限りない深淵、染まらない透明色、そこはかとない空白。

紙吹雪を使いつつも、舞わせず塊にして落とすとか、どうかしてる。

そして、出ている役者さんが、キャリアのあるヒトたちだから、手がつけられない。

脱線するが、「どうぶつタワーバトル」というゲームアプリにハマっている。上から落ちてくる動物をバランスよく積みあげ、中央にある土台から落ちないようにするだけのゲームである。様々な種類の動物を、重心を保ちつつ、崩れないように積み上げるのがセオリーだが、私はちょっと変わった手……動物の鼻に引っ掛けたりとか、わざと安定しない置き方をしたりとか……奇を衒った手を狙うのが好き。勝率や成績は落ちるが、そのほうが楽しいし、置きかたのバリエーションが広がる。ワワフラミンゴの作品は、奇を衒っていくことからはじめて、それが積み上がって作品ができがったいびつさがおもしろさになっているように思える。ストーリーが全く頭に入らないし、終演後、なんの話だったか思い出せない。断片的な面白さの絶え間ない連続、こそばゆさ、あとちょっぴりの怖さ……が残るだけ。

だれにも真似できない技法と特徴……オンリーワンという劇団は、ワワフラミンゴ、地蔵中毒、ナカゴー、ミズタニー……こんなところだろうか。

MCR『貧乏が顔に出る。』@OFF・OFFシアター

本作は再演らしい。MCRはノーガードの殴り合いのようなセリフの応酬だ。MCRの作品はいつも痛くてキツイところがあるけど、昔の作品のほうがエッジが立っているように思える。

学生の頃からの悪友3人。3人はちゃんと働きもせず、古いアパートの一室でルームシェアしている。すさんだ生活ながら、3人は幸か不幸か?ともかく毎日を楽しんで暮らしている。ある日1人が酔った勢いでお地蔵さんを持ち帰ってくる。その地蔵は不思議な力があり、自分の記憶を指しだすと、その価値分の現金が現れるという。1人は、お金のため、車を運転する記憶や、ギターを演奏する記憶を差し出す。

若干のファンタジー。でも、これはキレイな設定。自分が思っているより、大切な記憶だったと、対価の額によって気づかされる。自分の名前を売ったときに20円にしかならないとか、なかなか芯を得てる。だって、自分が自分の名前を忘れても、戸籍とかは残ってるしね。そこまで困らないかもって。親友と記憶……設定がわかってきたところで、まさか……と思う。3人は雑な友情で結ばれているけれど、ほんとうは、どのくらい閉めているのか。対価の額が出ればはっきりするが、そのときは……

MCRの男性俳優三人衆の演技が存分に見られる作品。しかし、三人衆は、なんてガラが悪いんだ。悪友、3人の掛け合いは、反社会的集団に見え……いや、いい意味で。

ろりえ『いけない先生』@駅前劇場

2019年の観劇納め。

演劇のタイプというか、質がいくつかあって、ざっくりマトリクス図にすると、水平にエンタメ↔アート寄り、垂直にアバンギャルド↔コンサバの方向に分布できたりするんじゃないかなー、なんて思う。ろりえは笑い多めのエンタメ向き。前衛的というよりはわかりやすい。直球的で、楽しいことを目一杯ぶつけてくる。まあ、私は日陰を歩いているヒトなので、キラキラ輝きながら「頑張ろう」とか叫ぶヒトたちを見ると引いてしまうヤーツ。陽キャ的(若者ことば?)なろりえは、少し近づきにくいところもある。根性論的なところを突っつく体育会系のかおりがするのも、ちょっとアレルギー。

高校の演劇部の話。いまは演劇から離れた教師(影ではセクシー映画の脚本を書いている)が、情熱的に演劇にかける生徒にほだされ、しだいに、生徒を指導し、励まし、鼓舞するようになっていく。そして、待望の文化祭のでの発表の舞台へ突き進む。

筋書きに目新しさはない(昔似たような野球漫画を読んだことあるような……)かなと思うし、また、劇中で演劇を扱うのも食傷気味。そっちにいくのかあ……とわかったとき、結構ゲンナリもした。……ただ、最終的には大満足だった。

まず、メタ的な要素が非常にスマート。『全裸物語改め実家物語』のときに、現在20代の女性の回想シーンに、高齢の女優さんに学生服を着せて演じさせるという、秀逸な演出を見た。年齢をひっくり返すなんて常識的にありえないが、田舎少女の素朴さと純情さをおばあちゃんが演じることによって、より際立たせていた…目が覚めるような演出だった。今回、演劇部に所属する4人の女子のうち3人を男性俳優が制服を着て演じる。この3人は2役で、場面によっては男性教諭を演じる。男性教諭は権力に媚び、演劇部を潰す側に回るという逆転のコントラスト。しかし終盤には、頑張っている演劇部を心の奥では応援しているということが透けて見えるようになり、女子高生役との融和も感じさせる。女装をさせるなんて、単にギャグでやっているのかと思わせるせる素振りもありながら、終盤のエモーショナルな展開の引き金を握るのはこの3人で、涙を誘うような演技をしたりもして、前日を超越した演技というマジックを見せつけられる。加えて、人数が少ない演劇部員が二役演じなければならなった展開のときに、「二役は大変だよ」なんてセリフを入れて爆笑を取る。いかにもメタメタなんだけど、イヤミなく受け入れられるスマートに挟みこんでいた。

ふたつめ。まあ、これは男の性というか、スケベ心です。こんなに綺麗どころの女優さんが揃ってたら、そりゃ見たいじゃないですか。岩井七世さんとか、間近で見たいじゃん(在前列だったので欲は満たされた)。しかし、教師の裏で実はセクシー映画の脚本を書いている役の岩井七世さんが、エロい話をやるとガードを下げさせておいて、メッセージをぶつける……と自身の脚本術を明かすセリフがある。これは、会場に来た男性紳士諸君ドキリときたのではないか。このスタンスは、まるまるろりえの信条ではないかな。少なくとも、キレイな女優さんたちに惹かれてフラフラきた私は、見事に罠に落ちましたし、このセリフを挟みこんだこともメタ構造でしょう。直球型かと思ったろりえだけれど、構造的にかなり上手いという印象に書き換えられた1日だった。

失礼と思いつつ……類型といえば、ミセスフィクションズかしら。コミック的な設定と展開(あと名前の付け方)、女優さんをキレイに演出するところなんてのも共通点。そういえば、ろりえは所属する女優さんが4人いるんだけど、この4人での作品を見たことがない。劇団員のみの公演とかやってくれないかな。

最後に

観劇数は減っていますが、あいかわらず小劇場が好きで、2020年もちょくちょく見にいかせていただくと思います。私は演劇に一切かかわっていないので、エラそうに感想など書いて、不快な思いなどされたましたら申しわけありません。毎回観劇するたびに、俳優さんにも、脚本家のかたにもリスペクトしかありません。そういえば、今年見たなかに岸田國士戯曲賞受賞作が出るかな?

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