2018年の観劇記録

こんにちわ。

2018年も小劇場を中心に観劇していました。一年のまとめです。

観劇数は91作品。今年は物入りなことがちょくちょくあり、また、みたことのない劇団の新規開拓をしていなかったので、観劇数は減りました。

表の一番左に「」マークが付いているのは、その月で一番おもしろいと思った、私的月刊MVP作品です。そのほか、印象深かった作品に「」マークをつけさせていただきました。

劇団 タイトル 劇場
1 温泉ドラゴン 山の声 ある登山者の追想〜完全版〜 「劇」小劇場
牛久沼2 花まる学習会王子小劇場
□字ック 滅びの国 本多劇場
玉田企画 あの日々の話 北千住BUoY
艶∞ポリス それ以上の何がある? 下北沢ギャラリー
シンクロ少女 LOVE -Chapter2- OFF・OFFシアター
2 なかないで、毒きのこちゃん ぜんぶ水にながしたるねん OFF・OFFシアター
劇団かもめんたる 尾も白くなる冬 赤坂RED/THEATER
iaku+小松台東 目頭を押さえた サンモールスタジオ
unrato Bloody Poetry 赤坂RED/THEATER
フロム・ニューヨーク サソリ退治に使う棒 下北沢駅前劇場
ハイバイ ヒッキー・ソトニデテミターノ シアターイースト
(城山羊の会、わっしょいハウス、犬の心、ラバーガール) テアトロコント vol25 ユーロコント
オフィスコットーネ[プロデュース] 夜、ナク、鳥 吉祥寺シアター
MU このBARを教会だと思ってる 駅前劇場
鳥公園 カンロ[リーディング公演] アトリエイースト
3 鳥公園 空白の色はなにいろか? ショーイング版[リーディング公演] アトリエイースト
ウンゲツィーファ 転職生 王子スタジオ
ほりぶん 荒川さんが来る、来た 阿佐ヶ谷アルシェ
鳥公園 蒸発[リーディング公演]、待つこと、こらえること[リーディング公演] アトリエイースト
あひるなんちゃら 今度は背中が腫れている 駅前劇場
ジエン社 物の所有を学ぶ庭 北千住BUoY
中野坂上デーモンズの憂鬱 三月の家族。 「劇」小劇場
Mrs.fictions 再生ミセスフィクションズ2 北とぴあ ペガサスホール
シンクロ少女 LOVE -Chapter3- OFF・OFFシアター
遠吠え 天国と地獄 王子スタジオ
(ミズタニー、ピンク・リバティ、 Aマッソ、スーパーニュウニュウ) テアトロコント vol26 ユーロコント
ミナモザ Ten Commandments こまばアゴラ劇場
4 中野坂上デーモンズの憂鬱 現っ、 花まる学習会王子小劇場
松本紀保プロデュース farewell サンモールスタジオ
かわいいコンビニ店員 飯田さん 僕をみつけて OFF・OFFシアター
かわいいコンビニ店員 飯田さん 生きている OFF・OFFシアター
プレオム劇 妄想先生 ザ・スズナリ
Q 地底妖精 早稲田どらま館
20歳の国 青春超特急 サンモールスタジオ
モダンスイマーズ 嗚呼いま、だから愛。 シアターイースト
ナイロン100℃ 百年の秘密 本多劇場
城山羊の会 自己紹介読本 シアタークリエ
mizhen 溶けない世界と 日暮里d-倉庫​
パラドックス定数 731 シアター風姿花伝
5 ナカゴー まだ気づいていないだけ ムーブ町屋4F・ハイビジョンルーム
シベリア少女鉄道 今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。 赤坂RED/THEATER
MCR 堀が濡れそぼつ ザ・スズナリ
小松台東 消す 三鷹市芸術文化センター 星のホール
6 シンクロ少女 Last Night In The City ザ・スズナリ
モダンスイマーズ 悲しみよ、消えないでくれ シアターイースト
江古田のガールズ 極楽 紀伊國屋ホール
宮部企画 サルサ踊る田端、真ん中 アトリエ春風舎
関村個人企画 ワタナベの自伝 live space anima
犬飼勝哉 木製のおおよその大きさ こまばアゴラ劇場
pityman ハミング・イン・ウォーター 新宿眼科画廊
7 庭劇団ペニノ 蛸入道 忘却ノ儀 森下スタジオ
二兎社 ザ・空気2 シアターイースト
劇団普通 新宿眼科画廊
コンプソンズ 平成三十年のシェイクスピア 花まる学習会王子小劇場
ホリケン演劇の会 ラヴ戦争 本多劇場
モダンスイマーズ 死ンデ、イル シアターイースト
(東葛スポーツ、劇団「地蔵中毒」、パーパー、男性ブランコ) テアトロコント vol.28 ユーロコント
NYLON100℃ 睾丸 シアターイースト
ナカゴー まだ出会っていないだけ 下北沢 駅前劇場
8 中野坂上デーモンズの憂鬱 果てっ、 花まる学習会王子小劇場
DULL-COLORED POP 1961年:夜に昇る太陽 こまばアゴラ劇場
劇団かもめんたる 市民プールにピラニアが出た!! 駅前劇場
ロロ グッド・モーニング 早稲田小劇場どらま館
Mrs.fictions ミセスフィクションズ夏の振替上演・上映会 駅前劇場
なかないで、毒きのこちゃん 二代目なっちゃんの愛人。 OFF・OFFシアター
ヤリナゲ みのほど 三鷹市芸術文化センター 星のホール
ウンゲツィーファ 自ら慰めて RAFT
9 ぱぷりか きっぽ 三鷹市芸術文化センター 星のホール
ほりぶん 牛久沼3 北とぴあ ペガサスホール
あひるなんちゃら あじのりの神様 ザ・スズナリ
(ミズタニー、ウンゲツィーファ、犬の心、ロマン峠) テアトロコント vol.30 ユーロコント
10 なかないで、毒きのこちゃん やっぱりおれたちにあすはないっすネ ザ・スズナリ
劇団かもめんたる 根の張る方へ 本多劇場
竹取 シアタートラム
かわいいコンビニ店員 飯田さん 手の平 三鷹市芸術文化センター 星のホール
マレビトの会 福島を上演する シアターイースト
11 PityChan 世光ちゃん。ぎらぎら♡ 北千住BUoY
good morning N°5 看護婦の部屋〜白の魔女〜 駅前劇場
good morning N°5 祝杯ハイウェイ 駅前劇場
ロロ 本がまくらじゃ冬眠できない 早稲田どらま館
12 MCR リフラブレイン OFF・OFFシアター
MCR 櫻井さん OFF・OFFシアター
MCR あの世界 OFF・OFFシアター
MCR 親展 OFF・OFFシアター
ワワフラミンゴ ハートのふゆ合戦 イリヤプラスカフェ カスタム倉庫2F
ロロ すれ違う、渡り廊下の距離って 下北沢トリウッド
ロロ いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した 下北沢トリウッド
ロロ いつだって窓際でぼくたち 下北沢トリウッド
城山羊の会 埋める女 ザ・スズナリ
serial number アトムが来た日 ザ・スズナリ

演劇じゃないけれど……

2018年の衝撃といえば『カメラを止めるな!』の大ヒットでしょう。ENBUゼミナール卒業生が近年劇場で大活躍していますし、作品の主人公を演じる濱津さんは舞台上でよく見かけていたので(2018年も、ウンゲツィーファ、ミズタニーで)、演劇好きとしてもビックリなことでした。濱津さん……ミズタニーと深く結びついてるイメージなので、また出て欲しいなあ。

MITAKA NEXT的にNEXTを考えてみる

三鷹市芸術文化センターが、MITAKA “Next” Selectionと称し、毎年、新進気鋭の劇団を選定して、星のホールでの公演をするのですが、この選出、結構うなるというか、毎年いいところに目をつけるなあと感心するのです(なぜかエラそうな目線)。過去に選出された面々もおもしろいのですが(MITAKA “Next” Selection 18thは、風琴工房、日本のラジオ、牡丹茶房)、2018の19thには(劇)ヤリナゲ、ぱぷりか、かわいいコンビニ店員飯田さん……と、わかわかしさがあり、手慣れている感じがまだでていなくて、そして、さらにもっと大きな劇団になりそうな可能性を感じるひとたち、ちょうどそのとき「いま、この劇団イキオイあるな!」って思ってたところが見事に選ばれているのです。ぱぷりかとかわいいコンビニ店員飯田さんは、以前にふれたことがあるかもしれない。(劇)ヤリナゲは15 minutes madeの15分しかみたことなかったのですが、ノっている感じがひりひり伝わる劇団でした。まあ、私と三鷹がシンクロしたわけではなくて、そのとき、だれが見てもノリにノっている状態の劇団が的確に選ばれたのだと思います。20thも、もう選出されていたはず……(情報見つからず)。

で、その次に選出……というか、私的に、2018年ノっているなと感じたNEXT劇団を挙げると……なかないで、毒きのこちゃんかなあ。所属俳優さんが、有名な劇団の客演でも活躍しているし、油がのっている感じが伝わってくるんですよね。

私の激推しは、相変わらずウンゲツイーファで、ちょっと上手すぎるし、この世界観をもっと多くの人が見て欲しいと思う。どんな劇場でも客を魅了できると思う。ノっているといえば、劇団「地蔵中毒」とか、中野坂上デーモンズの憂鬱も絶賛なんだけど、三鷹市芸術文化センターとはちょっと合わない気がする(でも、地蔵中毒は吉祥寺シアターに出てるし、NEXTも過去には拙者ムニエルとか選ばれてるし、うーん、あり得るかな)。

総論

先にも書きましたが、2018年は、あたらしく開拓した劇団があまりなくて、傾向を知っている劇団、好きな劇団の観劇が主でした。まあ、ちょっと心身共に沈みがちな一年でしたし、安定思考だったといえます。なので、リストを見返してみて、ほとんどが安定して満足。2019はもっと若手やアングラにも行ってみようかな。

今年の傾向はメタ的なものを多く見たかな、という感想。とくにはなかないで、毒きのこちゃんなのですが、続けてPityChanなど、演じているストーリーを飛び越えて、演劇をやっている様子を外から描いていたり、というのを、同時期に重なっただけかもしれませんが、多く見ました。私の2018年1位の作品は、ウンゲツィーファの『自ら慰めて』。激推し中で贔屓目もあるんですが。会場のRAFTの狭さも合っていたし、俳優さんたちの演技の自然さ、セットの使いかた、話の笑えるところ、エロさ、センチメンタルの加減も親しみやすくて、どれも洗練されていました。その後、テアトロコントでも見たけど、アレンジの仕方も面白かった(それでも30分の枠では短すぎると思います)。『転職生』もよかったです。世代の違う俳優さん、とくに若い俳優さんの魅力が発揮されていて、この俳優産別の所でも見てみたいな、なんて思うところも。

そのほかに面白かった作品を挙げていきますと……

鳥公園『カンロ[リーディング公演]』。「鳥公園のアタマの中」展という名目で、過去作品を別の演出家の手で上演したり、演出風景を公開したりとか、変わった企画でした(2019年もやるらしいです)。『カンロ』は、私がまだ演劇にハマるまえに上演されたものだったので、戯曲を読んではいたけれど、よく内容がわからなかったのが正直な感想でした。リーディング公演とはいえ、実際に俳優さんの言葉で上演されるとゾクゾクするおもしろさでした。

ジエン社『物の所有を学ぶ庭』。所見の劇団なのですが、ほかにあまり見ないテーマの作品ではないかな。2018観劇リストを見返していて、恋愛とか家族とか取り扱っていないものは特異だなと思いました。

松本紀保プロデュース『farewell』。この作品は小松台東の松本さんが書いた本で、5月の小松台東『消す』やVAICE★(2018年はやらなかった?)もそうなのですが、心情をつぶさに描くのに長けた松本さんが、最近は人の怖いところ、汚いところもえぐるようになってきたのかなと思いました。

犬飼勝哉『木星のおおよその大きさ』。いくつかの作品が合わさっていて、そのうちの2作はテアトロコントとかで見たことがあり、期待値が高かった。俳優陣もすごいし。上手く言えないのだけれど、犬飼さんの作品は、ほかの演劇を見たときとテイストが違っていて、希有な存在だと思います(上手く言葉にできず歯がゆいのですが)。

DULL-COLORED POP、福島三部作・第一部先行上演『1961年:夜に昇る太陽』。『アトムが来た日』の感想のところでも後述しますが、原発が語られる作品で、重厚に取材をして描いている作品が出てきたように思えます。人形を使ったりとか、感情を吐露するところを大声で叫ぶとか、ほかで見たらやり過ぎに思えるかもしれないのですが、しっくりくるから不思議です。三部作がどうなるのか楽しみ。

2018は連作や同時上演が多くありました。モダンスイマーズの句読点三部作。再演のうち、『悲しみよ、消えないでくれ』『死ンデ、イル』は所見でした。とくに『死ンデ、イル』(これもフクシマものですが)。痛々しい話でしたが、最後のBGMが上がるところで、今年一番高潮したかなってくらい心臓が高鳴りました。

MCRの4作公演もありました。1日3作観劇とか久しぶりにやりました。でも不思議と疲れなかった。『親展』は千秋楽を見たのですが、最後だったからなのかなあ、ものすごい気迫でした。なんだかいいもの見た気分。

ワワフラミンゴは名前をよく聞くものの本格的に公演を見るのははじめてで、なるほど、これは前売り完売するなと。観劇後、ほんわか、しあわせな気分でした。世の中がこんな世界観で包まれればいいのに……

ロロのいつ高シリーズを2作と、記録映像ですが、劇場で3作見ました。いやあ、いつ高シリーズっていいものですよね。私の憧れる青春です(でした?)。いつ高シリーズは観劇初心者にもオススメできる。わかりやすくて面白いし、かなり緻密につくられてて、どの年代にも受けいれられやすいと思います。

私事ですが、SNSと距離を置くことにしました

ツイッタで感想を呟くことをやめました。というか、急にもろもろイヤになってしまい、スマートフォン内のアプリを消してしまいました。6月くらいの話です。それから、パソコンからチェックはしているものの、以前よりSNSを使う時間を減らしました。観劇数が減ったのも、入ってくる情報量が少なくなったせいかもしれません。そういえば、今年も参加した文学フリマで、ツイッタをフォローしてくださっているかたがブースに立ち寄っていただいたのですが(そういえば、ろりえの志水さん出店されていたのでそちらへ行ったのでしょうか)、ひとまずツイッタはもうテンション上がったとき以外は書かないつもりです。

感想は、終演後、帰宅する電車の中でスマートフォンにメモしていました(140文字で書くよりは、ぜんぜん書きやすかった)。これ以降は、それを垂れ流そうと思います。観劇後のテンションにまかせて書いているので、いま読みかえして忘れていることも多々あります。なぜか、NYLON100℃『睾丸』と、good morning N°5の2作のメモが見当たらないのと、DULL-COLORED POP『1961年:夜に昇る太陽』のデータを誤って消してしまったため、ありません……

2018年、観劇後のメモ集

だいたい観劇後の帰りの電車の中で書いていて、そのときのテンションに任せているような文も多々ありました。読み返して修正を加えましたが、当時考えていたこと、作品の細部など、忘れている箇所も多々あります。おなじようなことを書いている箇所もあります。事実誤認がございましたらご指摘いただけますと幸いです。

犬飼勝哉『木星のおおよその大きさ』

複数の話で構成されている作品で、配役の変化などはあるものの冒頭のふたつの話は以前に観劇経験あり(『木星からの物体X』は3度目だったりする)。社会の縮図というか、ありそうな会社の話。電車のなかで聞こえてしまう、知らない人たちの会話を垣間みてるよう。自分にまったくかかわりがないから客観的にわかる滑稽さ、みたいな感覚を覚えます。舞台上で描いていると、それぞれ言葉と気持ちがどこにあるのか、その人の主観性を追おうと注力する。ありそうな題材から、シンプルに見応えがある対話になっていました。

そして、この役者陣。この人が出ているなら見に行きたいって思える人たちばかりで、素晴らしい俳優さんですよ。

「舞台が好きなのは、メッセージを与えられるんじゃなくて、そこから意味が生まれていく作品が多いからかな、と、ふと思った。観客がどう捉えるか、ともちょっと違う気がする。答えが決まっているっていうより、場があって生まれていくものがあるから? 多分それはまた次になにかを生み出していったりするんじゃないかな……」

上記は帰りの電車内でメモしていた文なんですが、断片的でなにを書きたかったか……ちょっと思い出せません。マレビトの会の松田さんとのアフタートークの回を見たあとでした。犬飼さんの作品は、ほかの演劇のときには考えないようなことを想起させられて、「なんで私は演劇が好きなのかな?」みたいなところに考えが及んだのだと思います。

堀内夜明けの会『ラヴ戦争』

カオスなシナリオをどうやってここまで仕上げたのか、非常に感服。(深夜番組『アリケン』で見ていた)堀内さんのヤバさ、エロさ、毒は、こういう、放映されない舞台作品で先鋭となって発揮されるのだろう。いまや国民の愛されキャラとなった出川さんの歌や噛み芸(?)も冴え、ダンス、殺陣も織り交ぜたポップな仕上がりでした(最近忙しそうな出川さんは出演シーンが減っているような気がする)。

不思議なのは、だれが主人公かわからないこと(最初に物語を回していたザブングル加藤さんが、後半はまったく脇役のように隠れてしまったりしていて)と、それぞれのキャラクターが善・悪(それはだれしも共存して内包しているにしても)どちらのなのか、話が進んでいるうちに見失ってしまう。軸を欠いているように思えるんだけど、なぜかストーリーが進行していくうすら怖さ。拙者ムニエルの村上さんが演出に入っているので、この絶妙なバランスを保っているんだろうと思うのですが、この綱渡りのような展開がシュールさに拍車を掛けています。

堀内夜明けの会から5回目の公演。3回目まで続けて見ていたのですが、食傷気味になって、4回目の公演は見ていませんでした。堀内さん、出川さん、伊藤さんの3人でも、十分爆笑を取れるだろうけど、アイドルもくわわっていて、それぞれの見せ場をつくっていた。一座の結束というか、劇団らしさが出てきたなという感じがしました。本当にイミワカラナイものをやってるんだけど、絶妙なシュールは実力がないとできないぞってのを見せつけられました。

モダンスイマーズ『死ンデ、イル』

句読点三部作はどれも潰されそうな気持ちでした。

被災地から、叔母の家を頼り暮らしていた女子校生が2週間前から失踪。記者の男が、彼女の姉、義兄、叔母、親しかった教師、恋人を集め、この事件の取材をしている。インタビューが進むたびに、消えた彼女の生活と胸のうちが解き明かされ、彼女の回想とともに、彼女の安否と失踪した原因に迫っていく。

傷つきやすい未成年の心情とフクシマ。テーマは割合わかりやすいかなと思います。そして、惹きつける演出効果の完成度の高さに加え、細部の人物の性格の描きかたは、人間味がにじみ出てくるようで、どこまでもやさしさが現れているけれど、未成年ながらの傷つきかた、それゆえに身動きができないところへ追い込まれていくさまが苦しい。

モダンスイマーズの脚本、この句読点三部作はどれも痛々しくて……どうしてここまで追い詰める物語を書くのだろう。追いつめて、追い込んだ先の現実を描く。シンクロ少女やMCRの作品を見たあとも似たようなことを考えます。こうまで追い詰められる物語を考えられるなんてどんなにサディスティックなんだ。

ラストシーンが非常に力強くて。主人公の少女がついに死ぬのか、あるいは生死を決定づけるような行動を起こすのか……というところで、ずっと首にかけていたベッドフォンを耳にかぶる。そして踊るように跳ね、闇へ進んでいく主人公。ボリュームを増す音楽の中、スクリーンに「生キテ、イル」の文字、暗転。暗闇を進む――その先が死だろうと――命の輝きを最後に描く。もう少し大人なら、こう描かないような気がするし、これまで描いてきた彼女の像からするならば、この終わりかたが一番ベストなのだろうと納得。ひどく悲観的かもしれないけれど、状況的に彼女はきっと生きてはいないし、なんとなくこのまま美しく(かっこうよく?)死んでいてほしいなと思ったりして。彼女はやっぱりどこかで生きていると思わせるような、そうあってほしいと思うために、逆にどこにも姿を表して欲しくない。少女の失踪、は昨年ぱぷりか『こことは』でもモチーフになっていました。やはり、生死はグレーにさせられていて、生きていて欲しいという希望と、生きていたとしても、その後の生活を知るのが怖いような、とてもやりきれない気持ちが襲ってきます。『死ンデ、イル』のあとに絞りでできたのは、希望というか、前向きな気持ちでした。絶望的な話なのだけれど、勇気とか、元気とかを分けてもらった、力強い作品でした。

テアトロコント28(東葛スポーツ、劇団「地蔵中毒」、パーパー、男性ブランコ) 

演劇枠は東葛スポーツと劇団「地蔵中毒」。東葛スポーツはENBUゼミナールの学生が出演。いつも名優が出演している東葛スポーツなので、今回全員知らない役者さんだったのが寂しく思ったものの、ラップは遜色なし。ネタもいつもの通り。ただ、東葛スポーツの作品ってエッジがききすぎてて、ちょっと、テアトロコントの客層でも大丈夫かなとか考えて、ハラハラしちゃう。素直に笑えばいいんだけどね。そういう意味ではイヤな客だな私。途中のネタは見たことあったかな。

地蔵中毒は、あいだに映像入れての2作品上演。ステージの幅が広がったのか、急激にポップになってきているように思える。狭く暑い小屋で見るのが醍醐味だと思っていたが、最近の活躍は凄まじく、大きい舞台にも出るようになってきた。テアトロコントでも爆笑だしね。地蔵中毒を肯定してしまうとなんか、世界がどうでも良くなってしまいそう。ワールドに引きずりこまれたらあとには戻れないぞって、ずっと踏みとどまっている感じです(でも、もう5回くらい見に行ってるんですけどね)。

嬉しかったのは(というかこれがあったからチケットとったところもあるのですが)お笑い枠でパーパーが見られたこと。以前テアトロコントに出たときに、遅刻をやらかしてアフタートークしか見られなかった苦い思い出があるので(あと、単独もチケット売り切れでとれなかった)念願かなって生でコント見られた。言葉の数は少ないのに、ひとことひとことのオモシロさがさえる。男性ブランコはまったくのはじめて。4本ネタをやるとなると、構成がうまれてきて、演劇っぽくなってくる。落ち着いた笑いで、演劇畑の人にもなかなか入りやすい。テアトロコントの時間配分はなかなか絶妙だなと思います。

お笑いと演劇の違いに、ツッコミがあるかどうかがあるんじゃないかと思っています。お笑いは丁寧にボケに突っ込んで、笑いになっていくことが多い。だけど演劇で的確にひとつひとつ突っ込んでいくと、ちょっと下品、っていうか説明的すぎていかにも感がでてしまう。男性ブランコのツッコミの柔軟さや、パーパーのカッチリしたツッコミのないスタイル。コントや演劇にとっても相性がいいと思う。

まあ、最終的には、地蔵中毒の前でだれもかれも無力になってしまう魔力があるから怖い。

ナカゴー『まだ出会ってないだけ』

最近のナカゴーの、幕前に舞台上で役者さんが練習(?)を始めるスタイル(軽いネタバレをあえて見せてしまっている)と、幕が上がってすぐ、出てきた俳優さんがあらすじを喋ってしまうという、トリッキーな技法で今回も始まる。ナカゴーはもうあらすじとかを廃して作品を構築する気なのか、いや、それでも十分腹を抱えて笑うんだからすばらしいけれど、ここを攻め続ける先になにが出てくるのか、興味深いです。

だけど、今回の幕前の練習時間は上演10分前からで、開場時からやっていたときに比べ少し短め(?)にしたのか、それとも、何度もやっているので控えめにしたのか。内容にも、未来を見ることができる能力者が出てきたり、客が先を予想してハラハラする……なんて行為をまっこうから潰していく。ナカゴーではおなじみの黒子も、もういることが肯定されているから不思議な世界観。したたかさを感じるアナーキーさ。

ここ最近の作品のなかでは、ちょっと爆発力がなかったかなと思ったものの、笑いの代わりといってはナンですが、胸にじんとくる話になっていました。これは、客演の上田遥さんの好演が利いているのだけど、(ここ最近の作品でもよく見られる)情緒的な演出を盛り込んでいて、効果を発揮していました。悲しい結末ではあるものの、心にうったえてくるようなラストシーン。観劇後ほんのりいい気持ちになる。ナカゴーなりのキャッチーさか、それとも、話の終わりかたを探って行くとこうなっていくのか。ってかナカゴーであんなに情緒的な演技が出ると思わなかった。

中野坂上デーモンズの憂鬱『果てっ、』

う〜ん、個人的にはちょっと好きじゃない方向に行きだしたかなあ、という感想もあり。ここ最近、怒濤のセリフの応酬を見せていたけれど、今回は冒頭とクライマックスにあるとして、全体的には落ちついた時間の使いかたをしていました。

前回(『現っ、』)の目を見張るようなトリッキーな演出をしていたようなところは見られなくて、真っ向から勝負という感じが見られました。それは、むしろ好意的に感じてともかくなんですが、果てと冠していたわりに、いまひとつ広がりを感じなかったのが残念。最近私、舞台の広さが気になるようになってきて、なんというか物質的に舞台が狭く感じました。『園っ』のときは伸びやかさ(王子小劇場を縦に広く使っていた)を感じていて、もしかすると単純に役者さんが舞台を移動する時間のかかりかたとか、そんなことかもしれないんですけど、デーモンズの世界観の大きさは、あのくらいの舞台の広さなど優に超えていて、広大になっているんじゃないかなと思っています。

笑いの要素がパワーアップしてるし、各俳優さんの演技の軽快さはとてもよい反面、デーモンズの、異次元に引きずりこんでくるような幻想的なところが薄まってしまったようにも思えました。キーになる人物とエピソードは随所にあるのですが、人数が多いのかなあ、もっとウラに掘りさげもみていたいと思うキャラクターも多くいました。

Mrs.fictions『ミセスフィクションズ夏の振替上演・上映会』

長編新作『月がとっても睨むから』を公演予定でしたが、延期となり、急遽過去作品の振替公演(リーディング公演、上映含む)となました。Mrs.fictionsは短編が多く、私自身長編をナマでみたことがなかったので期待していたのですが残念でした。出演陣、作品タイトル、チラシのイメージ、どれもよかったですし。とはいえ、予定されていた出演陣での公演にはなったし、見たことのない作品も見ることができたので、まあ不満はなし。いずれ完成するときを待ちたいです。

『ウルトラマンPRADA』『お父さんは若年性健忘症』『ミセスフィクションズの祭りのあと』『まだ僕を寝かさない』の短編を見てきました。所見は『ウルトラマンPRADA』『ミセスフィクションズの祭りのあと』の2作。

Mrs.fictionsは少年漫画のソウルを持っているなと感じます。モチーフも設定もどこか漫画ぽいところが多い。過去にはまんがまつりってのもやってるし。

私が好きなのは、とくに女性の描きかたが素敵なところ。Mrs.fictionsの作品を見ていると、演じている女優さんが愛おしくなる。『お父さんは若年性健忘症』は(これはネットで公開されている)なんて、登場する母親も娘も愛おしくてしょうがなくなる。女性の芯の強さ、無邪気な愛らしさ……『ウルトラマンPRADA』もウルトラマンという少年丸だしのモチーフながら、出てくる女性が力強くて、憧れる女性(演じていたリジッター企画の真嶋さんって、何度か拝見しましたが、画になる素敵な女優さんです)。Mrs.fictionsに出ると、の魅力が増すので、ぜひ、女優さんバンバン出演してほしい。

劇団かもめんたる『市民プールにピラニアが出た!!』

劇団かもめんたるはなんと皆勤です。でも、一番好きだったのは初回の公演で、そのときが一番演劇然としてたように思えます。何事もクセみたいのが見えてくると、ちょっと萎えてくるもの。段々とわかりやすくツッコミが入るようになってきて、お笑いに寄っていってるなという印象を抱きました。あくまで個人的見解に過ぎないんですけど、演劇は、漫才のようにツッコミを入れてしっかり成立させてしまうより、変な空気になってしまったところとかをズルズル引きずっていって、取り返しが付かなくなってしまったり、そこから葛藤が生まれる展開になったほうがいいと思っています(現実でおかしな人が現れたら、きっとそんなにツッコむことなんてできず、みんな空気読んでいくと思うんですよね。そういう意味でツッコミはわかりやすくてやさしさがあると思うのですが、演劇作品はどんどん複雑になっていってもいいように思っています)。

で、5回見て、かもめんたる作品の狂気というか、気持ち悪さとか、気持ち悪いと思われるのを楽しんでるというか、正しい変態のありかたを見せつけられているようです。「私変態だからー」なんてライトに言えるような性癖じゃなくて、マジの変態は本気で引きますよって振り切っていて(それでもどこかで抑えてるような気はするけど)。見てる人たち、大丈夫なんかな、ほんとに気持ち悪くなっちゃう人とかいないのかな。

1回目から思っているのですが、スベるようなセリフを入れたり、実際スベってるシーンを意図的に入れたりしている。う大さんって、ホントにワルだなあと思う。

ロロ いつ高シリーズvol.6『グッド・モーニング』

まずひとつお断りとして、私はロロがちょっぴり苦手なところがあります。本公演を2作見たことあるんだけど、ロロの描く世界が綺麗すぎて、やさしすぎて……ヒネくれた私にとっては逆刺激が強いのです。観劇のあと、自分の心の醜さを再確認してしまうので見に行くのをためらってしまうところも。しかし、作品は、神が宿るような細部の緻密な描きかた、現代的なジェンダー、フェミニズムを感じるところ、かなり先進的なことをやっている劇団だと思います。人気があるのも当然。

いつ高シリーズは、以前ネットで限定配信したときに、2作見ていて。いや、もう素晴らしすぎる。ちょっと苦手といいつつも、両手を上げて絶賛します。ロロの癖(前述した、きれいすぎるとかやさしすぎるとか)は、ふんだんに感じるのですが、この限られたフォーマット(いつ高シリーズは、学生演劇のルールに則って演じられる。主には時間が60分以内、セットの準備は10分以内にするとか)の中でやるからか、もしくは設定が高校ということで、舞台が身近なもの(学校とか)になるのかもしれない。奇抜な設定とかファンタジックな場面とかも制限されるので(とはいえ現実的にかなり奇抜な人たちではあると思いますが)、セリフの意味や、演技に集中しやすいのかもしれません。雰囲気のキレイさの中にこんなにガッシリとしたセリフ入れてるんだ、と、コンパクトに制限されているなかで気付きます(というか、これまでの公演は雰囲気に流されて、肝心なところのがしていたんじゃないかと反省もする)。顔を見たことないけど好きな足音とか、声きいて笑顔を想像するとか、舞台で見せているなかで音に対する言及することで、舞台を超えた世界の広がりをかきたてる造りは、なんとも見事。

だれも意外と病んでるのではないかな?と思いました。下校時間に登校してきて学校で夜を過ごすコ……という設定は、まあ明らかになにかの闇を秘めているけれど、多少でも、ちょっと変わった行動をしているってところ、みんな持っている気がする。だれも少しばかり闇があるんじゃないかと。

若さ、でかたづけるのはどうもズルい気がするけど、設定が高校生とかになると(演じているのは大人だけどさ)、初々しさ、情熱の爆発力を感じる作品になるのはなんでだろう。本気で病んでいた(る)私にとっては、いつ高シリーズは、同級生同士が、自然と個性を受け止めあっているようすが、快いくてすがすがしいのです。

ちなみに、『グッド・モーニング』は白子と逆おとめの二人芝居という、好きなキャラクターの作品でした。ラジオネタとかツボです。

なかないで、毒きのこちゃん『二代目なっちゃんの恋人。』

いま勢いがある劇団の筆頭に毒きのこちゃんを挙げるのですが……個人的にはあまりとっつけなかった作品です。かなりツウ好みなつくりではあります。だけど、ヘタすると内輪の笑い。少なくともある程度小劇場にきてる人じゃないとイカンのではないかな……と思う節あり。

この文を出す頃にはネタバレももう大丈夫かしら? ざっくり説明してしまうと、冒頭に普通に劇が始まり、途中からその劇をぶっ壊し、ドタバタの劇中劇(?)となる。連想したのは、デーモンズがやってた、演出家が乱入するのとか、内輪の事情をさらけ出していくようなやつとかかな。

で、これがツウ好みだと思うのは、最初の劇の濃厚さ。劇団員の田村さん、最近他の舞台でも活躍している姿を見るし、女優としてノっている。20歳の国の古木さん(20歳の国はみんないいけど)改めてうまい人だなと実力を感じる。こういうちゃんと演技を見せるというツウ。ただ、途中から劇の部分は壊されて、ドタバタの笑いになっていく。コントラストを作るためなんだろうけど、うーん、私は最初の劇の演技、スキだったんだよなあ。そのまま見たいと思ってしまいました(エロめのシーンがあるからとかじゃないよ)。

そして、ドタバタに入ってからの、ガンツさんの面白さとか。からまわりえっちゃんの劇団員が客演で入っていたりして、あの劇団ならではのパワフルさと破壊力とか、このドタバタのパートはそのエッセンスも拍車になってるんじゃないかなとか。そんなところを感じたツウ。

そして、OFF・OFFシアターのツウ。あの劇場の舞台の作り……柱が出っ張っている構造とか、舞台横に窓があるところ、そして運営のあの人を使うツウ。あと客を巻きこんでしまうところ(これは『ぼうぼう』あたりでも少し感じたかな。ちょっと苦手なんだけどね)。

作品の途中で、みずから演劇について話してしまったりするのは(シリアスではないにしろ)、よほどうまくやらないとシラケてしまう。仕掛けがあるにしても、知っている人だと客席に俳優さんが潜んでいるのがわかってしまうし、スタッフ役として登場してきても、所属俳優さんだとわかってしまう。見る人の正確の問題かもしれないのですが、どこまで仕掛けているのだろう……ばかり考えてしまって、構えてしまうんですよね。

毒きのこちゃん、いままで見た作品のスタイルが、それぞれ結構違うなと思いました。ドタバタな感じのほうが専売特許なのかしら。所見は『やさしいムスコ』で、それはわりあい直球の劇でした。いろんなエッセンスを取り込んでいる柔軟さが窺えて、うーん、でも、これだけカッコイイ役者さんが集うなら、ど直球が見てみたいなとも思います。

ヤリナゲ『みのほど』

今回の公演はバタバタがあったようで、公演一週間まえに劇作家・主宰の病気が発表され、演出を劇団名義でおこなう、2名出演者の降板(見たい俳優さんだったのですが)があるとの発表でした。作品も、つなぎあわせた短編でした。まず冒頭に、作品が書けなくなったという旨の話をする主催(役者さんが演じている)と劇団員の会話の場面を挿入し、合間にも稽古場での風景を挿入したり(これはどこまで実際の事情なのかな?)、作品と事情についての説明のような節を入れていました。なので、もともとの作品とはまた違う上演だと思って考えるしかないでしょう。短編それぞれは、純粋に作品が面白かったです。ハイバイの作品ような深みを感じたりもしました(これは家族の話ってところで反応しただけかもしれない)。

ここのところ、完本できず公演内容の変更、とか、メタ的な劇中劇などが続き、ちょっと構えてしまう公演が続いたので、内外の事情は抜きに、安心して見られる作品がみたいな……なんて思いました。

いままでの傾向で、いい俳優さんが集まってくる公演は、いい演出家、いい本だからだったりするし、いい演出家、いい本のところにいい俳優さんが集まってくるというのがわかっていまして、これだけの俳優さんが集まってきたからにはヤリナゲは絶対面白いはず(私が云うまでもなく)。この先も作品を見たいと思ったんですけれど、なんだかモヤモヤ。

ウンゲツィーファ『自ら慰めて』

絶賛激推し中のウンゲツィーファの再演。通算3作品目の観劇だけど、うまい。若い劇団の中で抜きん出てうまい。はじめから期待値を上げてかかっていたのですが、期待以上で、面白さを更新。いいよ。最確認。

中野RAFTはとても狭い。狭い劇場に慣れていてもちょっと敬遠するくらい(あと、駅から遠い)。この狭さで、雑然としたセット。どうやるのかと思っていたけど、無駄なく、というより狭いことをサラリと使うあたり、技術の高さがうかがえます。漫画喫茶の個室、同棲してる男女の部屋も、狭さという点でリンクしてるように思えた。動線の面白さも、この狭さをアドバンテージにしている。壁にプロジェクトで出されている街の風景(東中野のライフ?)も、話の上で意味があるわけでないにしろ、気の利いた効果。なにより唸ったのは、ずっと舞台の端にかけられているカエルの面。開演前は、インテリアかな?と思ってたのですが、すっとカエルの話題が差し込まれてきて、途中、役者さんの一人がカエルの鳴き声をするんだけど、ちょうどそのうしろにカエルの面がくるようになっている。照明も(最近こんなとこまで気にするようになってしまった)青と赤が分けられていて、これもどう使うのかと思ってたけどナルホド、そうきたか。最後のセリフにはしびれた。あと、フリーペーパーを知人に渡したあとの感じとかリアルだと思った。そして、20代中盤からの世代、大学を出て社会人になってから数年した世代の現実(年上から「学生気分が抜けてない」って言われちゃいそうなところの)、不安の描きかた。それもちょうど今の時代の、この年齢の心理がリアル。

いいなと思った役者さんを別の公演で見て、あれっ? こんな感じだったかなって思うことがります。以前は気づかないほど生き生きしていたりとか。もちろんどんな役でも魅力が出る人はいるけど、作品と演出で、輝きが違ってみえたりすることがあります。うまい劇団だなって思う一要因に、出てる役者さんが全員魅力的に見えるってところがあります。個人的な好き嫌いはどうしてもでちゃうんだけど、それでも出てる人みんなを肯定したくなるし、その人物について、もっと内を覗いてみたいと思わせる魅力。そして、この人たちが(どんな現実離れした設定があったとしても)、現実に存在しているんじゃないかと思える(これが自然体の演技というのだろうか)。どう演出するとこうなるんだろうと感心する。奇をてらってないとか、だれかモデルがいるのかとか、人間観察がうまいとか、技術的なことなのでしょうか?

ウンゲツィーファでしか見たことのない役者さんが何人かいるんだけど、印象に残るんですよね。役者さんがみんな魅力的。つまりは、上手い劇団なんだなって思うんです。もしもこの役者さんが他のに出ているなら見に行きたいな、なんて思う。役者さんの個性と演出のよさで相乗効果だよね。こうやって、どちらものし上がっていけたらいいよね。

余談ですが、Macにアドビが映ると反応してしまう職業病。

ぱぷりか『きっぽ』

ひとことで印象を言うと、気持ち悪かったです。再婚した家族の、空想(?)の中で起こる幸せな家族像……が、もう、あり得ないほど幸せすぎて気味悪い(こんな家族って現実に存在します?)。でも、暗転したあとに現実の味気なさ、澱んだ人間関係、空気、……の現実が始まる。この対比させる技法が相乗で人間関係の気持ち悪さを浮き立たせる。

性善説と性悪説。なんだか出てくる人が総じて嫌な人に見える。と同時にいい人そうな人、あるいは途中のセリフでコイツいいやつかもな、と思えた人も、いい感じでイヤなところをが出てきて、イメージを上塗りしてくる。ほんの少し投げかける目線でイヤな部分をちらつかせたりとか……とても気味悪い、し、なんか上手い。

二元論で振り分けられるわけでなく、いい部分しか持たない人間なんていなくて、リアルな緻密さを感じるのですが、これをきっちり描いて話にするの腕前はなかなかにして秀逸。そして、だれしも芯に秘めている思いがあるのも立体的。

理想と現実は近いほうが生きやすいのかもしれない。満たされなさ、弱さなんてのは、現実との乖離なのかもしれません。かといって、理想と現実、どちらかを廃し、片方だけに絞って生きることもできない。現実をうまく捉えられている人物のほうがイヤなやつに見えるけど、しかし、理想が強い人のほうが問題が多いように見えました。思ったとおりにはいかないと、わかっているけど理想を求めてしまう苦さ。最初に見たぱぷりかの『虹の後』に、依存症の人が出てきていたけど、今回の作品はもっとたくさん、どこかを無理に埋めようともがいている人が出ていました。それと真実との距離感。結局、(たぶん)観客が一番知りたかったであろう父親が抱えている秘密は明かさないまま終えていたのだけど、現実も悪くないと思わせる最後のシーンが、自然だけど力強くて唸りました。

そんなわけで、十分に巧みに描いているからグサリとくる感情で、ただ単に気持ち悪いってことではなし。一番怖かったのは、紙一重で犯罪のようなところへ発展してしまう要素が幾つもあったところ(女子高生とそれにちょっかい出す無職の義兄とか、温和だけど得体が知れない、近所をうろつくオジサンとか)。いつか事件の引き金を引くんじゃないかと想起させる作り(そして、話の舵の取りかたしだいでいくらでも悲劇に持っていける余地を残しているところ)も気持ち悪さに拍車をかけてきます。

期待以上に面白かった……というのは失礼だけど、ぱぷりか、年月とともにグンと深まってきて、どんどん見応えがある作品になっています。星のホールの劇場の奥行きの深さとかも相俟ってるのか、そして、出演する俳優陣も、えらく上手い人が揃っています。これだけ人間をえぐり出すような作品にしていくのに、どれだけ分析を重ね、どれだけ吸収しているのだろう。作り手のひたむきさを感じました。次回以降もとても楽しみ。

ほりぶん『牛久沼3』

『牛久沼』シリーズは最初から見ています。1作目を見たときの衝撃が凄すぎ。そして2、3……技法、構成は以前のシリーズとだいたい同じですが、免疫はついていたものの、笑わずにどうやってこれが耐えられるものか。そして、これの感動をどう伝えたらいいのかわからない。牛久沼で釣ったウナギをめぐって人々が争う話、時が捲き戻る……なんて説明をして、わかってくれるだろうか。

最近のナカゴー作品と同じ、冒頭に登場する役者さんが、作品のストーリーを全部喋ってしまうというネタバラシ演出。いちおう続きものではあるので、当日パンフレットに過去2作のあらすじが書いてあるのですが、それに加え今作の話の内容と、なんと牛久沼4のあらすじまで(読んでみたらすげー面白くなりそう)ぎっしりと書き連ねてあったりします。あらかじめあらすじを明かしてしまう……ただ目の前で起こることで笑わせにくるストロングなスタイルに見受けられます。そして、それで大爆笑になるのだから、もうだれもかなわない。

あたりまえの動作もこまかくデフォルメを入れていていたり、意図的に引っかかる単語をちょくちょく使うところなどあいかわらず秀逸で、何気ない単語もイントネーションを変容させるわずかなニュアンスで、話が大きく動かない静かな場面でも、絶えなく笑わされてしまう。日射病という単語をチョイスするところ(いまは熱中症といったほうが一般的ですよね)など、いかに日常生活の些細なズレを見逃さずに吸収しているのだろう。作演出の鎌田さんの鬼才ぶりが窺えます。いったい世界をどう見ているのでしょうか。

女優さんが演技をしだすと、いっそう綺麗に見える……ということはあっても、気持ち悪い……と思うことはそうそうないです。川上友里さんのスバ抜けた演技は、もういろんなところ飛び越えててアレですが、これまた名手、NYLON100℃の菊地明明さんの一挙手一投足が(表情も)マジで気持ち悪かった(もちろん褒め言葉)。気持ち悪くなる演技って、できる人すごいと思うんですよ。しかも女優で。

いっぽうで松竹史桜さん……この女優さんは、ミズタニーや犬飼さんの作品など、ちかごろよく拝見しまして輝きをはなっているのを感じます。冒頭で白目をむいたりするものの、小柄な身体でビシビシ動くところ、目を見開いたりしかめたりする表情、逐一可愛らしい。精力的に活動されているのにギラギラしたところを感じず、柔軟な演技をするかただなと思います。『牛久沼』は、途中で話の中心になっている人以外が、地面に伸びていたり、端で絶叫していたりといったシーンが多々あるのですが、そんなフォーカスが当たっていないところでの表情もひとつひとつ面白くて見とれてしまいました。

演劇を見たことない人は、ほりぶんを見て、ぜひとも度肝を抜かれてほしいですね。あらかじめ抱いていた演劇のイメージなどすぐに壊してくれるでしょう。10代とかのピュアな世代が見たら世界観が変わってしまうくらいの衝撃があるだろうし、もしかして演劇の道に(ENBUゼミナールとかに入ったりして)進みたいと思う人も生まれるんじゃないかな。どんどん道を踏み外してほしい。

アヒルなんちゃら『あじのりの神様』

すごいタイトル。以前にあひるなんちゃらの公演のあと、次のタイトルを観客から募るってイベントやってたことがあったので、今回のタイトルもそうやって決まったのかな。

しかし、タイトルの奇抜さに負けないほど、整理された展開と奇天烈なキャラクターたち。そして、ほんわかとした話。いつもの通り安心してたのしめる。あえてどうこういうのが野暮な感じ。貫禄があります。

役者さんも、魅力もクセもわかった常連さんが多いし、シンクロ少女、MCRで馴染の役者さんもたくさんいるので、手練の技を堪能。パラドックス定数の小野さんは、クセがあっておもしろい役者さん。出る作品を選ぶような気もするけど、一発で顔を憶える人だし演技もすばらしい。もっといろんなところで見てみたい人だ。あと、澤さんはメガネないほうがかっこいいと思った。

今回もオリジナルソングを購入。あひるなんちゃらってチケットが安いので、ぜひグッズをばんばん買おうぜ。

テアトロコント30(ミズタニー、ウンゲツィーファ、犬の心、ロマン峠)

テアトロコントの他で見ることができないミズタニーを見逃してはならない。そして今回は絶賛劇推し中のウンゲツィーファが出る。予約マストです。

テアトロコントを見るたびに、このパッケージの特異性を考えないとならない。お笑いから2組、演劇から2組、それぞれ30分の持ち時間で上演する。お笑いからすると30分は長いし、演劇からすると30分は短い。そしてコントと銘打つ以上、笑いの要素は必ず必要になる。この難しさを感じずにはいられませんでした。

ウンゲツィーファの演目は『自ら慰めて』のショートバージョン。8月にRAFTで見たばかりだし、唸った作品でした。一部キャストが変わっていたものの大きな変更はなし。となると時間の問題が大きくて、どこを削っていくのか。ロングバージョンも、笑いが起こる箇所はたくさんあったのですが、短くするなら、時間をかけて伏線を張っていくのは難しい。全体的にセリフのスピードも速かったし、身振りもまじえてポップにしていた印象。彼氏を詰っているのに反対の方向を見てしゃべる(噛み合っていないことのメタファーか)ところとか、笑いのツボに入ってしまって爆笑しているところとか、きっちり笑いを取っていて感嘆する表現が多々ありました。緩急、とくにゆっくりと情緒を含めた言いかたはやりにくいはずなので、それがこの作品(笑言える箇所はたくさんあるものの)の持っている、ときに後半で展開される情緒的な部分をおいていかざるを得なかったかなと。そして、端折っていることで、所見の人にどこまで伝わったか。話の持っているボリュームをどこまで観客が噛み砕けているのか。くりかえしカエルのイメージ(鳴き声とか、おたまじゃくしとか)があるのだけど、この時間の中では、伏線を張りきれていないんじゃないかな。あと、ネットカフェで暮らしている男や、同級生たちの関係性も、キャララクターのもつ背景を感じさせるのに、とても時間が足りないように思えた。

逆にミズタニーは、テアトロコントでしか作品を上演していないので、30分の時間的制約を感じられませんでした。

ミズタニーの素晴らしさを讃えて尽きることはないのですが、舞台表現における象徴主義というか……お笑いはどこかやさしさがあって、割ときっちり説明してくれたりする。ツッコミなんて最たるもので、変なこと言ってる人はそれだけで笑えるのに、なんでやねんと、見る手に笑うきっかけと時間を与えてくれる(このへんがお笑いと演劇の最大の違いだと考えています)。ミズタニーは関係性の説明もセリフも最大限で、演技で象徴的に表現している。たとえば、ふたりの男女が手をつなぎ笑って現れたら、それはもう恋人の象徴であって、説明する必要はない。そして、それをなんともいえないシュールで可笑しな動きと言葉の選び方(イントネーションをズラしたりも秀逸な技法)で、極端にデフォルメしてくる。男女が、変な動きでチュッチュやっているさま……これは、見知らぬ浮かれた男女のいちゃつく様子だとすぐにわかるうえ、客観的に眺めたらこれくらいバカみたいに見えるんじゃないかと。何度も口づけしながら変な動きでぐるぐる回ったり、やめたと思ったらまた始まったり……濃厚な愛撫を、なんの感傷も含めず第三者がながめたら、きっと滑稽な様なんだろうなとことを、という端的でなかば毒も感じる表現で、見事に浮き彫りにしています。演劇としてはかなり奇抜と思えるミズタニーも、表現や仕草で語る、演劇のひとつの昇華系だという思うのです。

余談ですが、猪木のようなしゃくれた顔して「みんな殺してやる」と叫ぶセリフが、私的に、アントニオ猪木の「元気ですかー!」を反転させたパロディじゃないかと思って、すげぇと唸ってしまったのだが、この認識は当たっているのでしょうか。

お笑い枠の感想は割愛します。ちなみに私が見た日の前日の回は、キングオブコント優勝者のハナコが出ていました。きっと会場、人気で大変だったろうな。それと、これも至るところで触れられていましたが、ウンゲツィーファにもミズタニーにもゆかりの深い俳優の濱津さんが今回はいませんでした。『カメラを止めるな!』のヒットで今や人気者になってしまいました。私としては小劇場でもっと見たいのですが。

なかないで、毒きのこちゃん『やっぱり!おれたちにあすはないっすネ』

今一番ノリに乗ってる劇団、毒きのこちゃん……なんだけど、うーん、ちょっと好きキライが出てしまうかな。前回の『二代目なっちゃんの恋人。』もそうなんだけど、どういうスタンスで見たらいいか、困ってしまった。客のリテラシーも求められているような気がするんだよね。あきらかに演技してる人が客中に紛れ込んでいるのがわかるし、所見の人を驚かせたいのか、予定調和を前提にして楽しんだらいいのか(私は、この作品は所見だけど、前回のことがあったので構えていた)。舞台と客席の境界線がないために、仮想の世界にどう入り混んでいけばいいのか悩んでしまったのです。「つべこべ言ってないで楽しめ」ってのが正しい姿勢ではあるものの、自律神経がちょっとイっちゃってるオジサンには、そうそうノリずらいものがあるのです。あと、あの会場のつかいかたは腰が痛いです(老人)。

いろんな場所で劇が起こるので、全部を把握できない。複数回通わないなら、どこを見たいか絞り込まないといけないかな。客が動けるのは面白いんだけど、集中力が途切れてしまうタイプの人にはキツい。演劇をどう鑑賞したいか、の姿勢にもちょっと注意が必要で、セリフ回しの妙を聴きたいとか、役者の演技をじっくり見たいとか、舞台の使いかたを観察したいとか、重点の置きかたによっては、あまり楽しめない。セリフが交錯するので、聞き取りづらいのですが、一箇所のセリフを聞いていると、節々でほかの所からの声が聞こえるし、縫って聞こえてくるセリフが面白かったりして、全部ききとれないことが悔しくなります(複数回通えということかな)。

うーん、私的には、ストレートに打ちのめしてくれるようなものも見たかったりする。だけど、この作品はこれがないと成りたたないんだよね……どうしても分散してしまって、話の持っている力を捉えにくくて、役者さんの力量を感じにくい(この難しいのを成立させてスゴイ、とはなるものの)。

……なんだか否定的な意見ばかり書いてしまったのですが、「じゃあなんで何作も見に行ってるんだよ」とか言われそう。「若い女優が多いからだろ? スケべめっ」……まあ、否定はしません。劇団の持つ底しれないパワーは、何事にも代えがたくて、大ブレイクする感じがずっとしているんですよね。

劇団かもめんたる『根の張る方へ』

劇団化(?)した劇団かもめんたる。考えてみれば、第一回から見ていて皆勤。初本多劇場……なんだけど、本多劇場でやるにはちょっと広すぎるかな。レッドシアターでも広かったと思っています。OFF・OFFシアターあたりでコソコソ見ようよってな感じの作品だと思うんだけど、どうかな。

う大さんが鬼才であることに間違いはない。時間を縦軸と横軸で考える(縦は過去現在未来、横軸はパラレルワールド)というぶっ飛んだ話を、すっと当たり前のように説き伏せようとしてくるあたり、かなり面白い。ただ、兄が予知能力者と断定させるには説得力が弱いと感じた。

心にグサリときたのは、さして成りたかったわけではないけど、成り行きで一生の職になってしまった仕事……をしている主人公が、その職業に成りたくて夢を持って入ってきた人に引け目を感じてしまう葛藤。う大さんらしく、細部をヒネくれて描いているものの、たしかにこういったケースは大いにあり得るし、だれもが大望を持って仕事をしているのだろうか。あるいは、できているのだろうか。それに、なんらかの理由があって仕事に就けない人もいるし……情熱って、ないとダメですか?みたいなことが頭をよぎる。う大さんと世代が同じくらいなんだけど、もしかすると、就職氷河期に当たった世代からくる発想なのかも?と思いつつ、ただ、夢を持っていないと続けられないであろうお笑い芸人のかたが、こういうテーマを描いていることに、驚きと、人間観察力の鋭さに……うーん、鬼才ですよね。

現代能楽集IX『竹取』

えーと、まず、私、貫地谷しほりさんが好きなものでして、女優さんとしてというか、まあ、もろもろ好きなんです。前提。

現代能。古典の能をほとんど知らない(むかーし高校の芸術鑑賞とかで見た記憶はある)ので、はて、どう見ればいいのか、開演直前にあれ?と気づく。

ストーリーを見せるというより、感情の変容をどう表象に見せるか、なのではないかと感じました。舞台の使いかた、照明、セット……は演劇でも見る表現があり、現代能とあるからに、音やセットも時代性にとらわれない。といいつつ、伝統的な部分や節もおり混ぜていた。能らしいセリフもありながら、ドラマのようなセリフもあり。クールジャパン?そんなダサい言葉で形容してはいけないよな。

シアタートラムは気品を感じる劇場で、天井と奥行きが深いせいか、暗闇がよく似合います。作品が上品になることが多いなと思います。

演劇ではないな、ということでどこまでついてけるかちょっと不安だったものの、うーん、終わってみればもっと長くても十分楽しめたんじゃないかな。もっと頂戴な感じでした。カーテンコールにもっと拍手あってもいいんじゃないのかしら。

驚いたのは小林聡美さんの、なんともいえない愛らしさ。自分よりずっと年上のハズだけど、子どものようにあどけない表情で動く姿、あ、これはだれもが惹かれる理由がわかる。ひと目でトリコになる。

いっぽう、貫地谷しほりさんは、このタイトルならばかぐや姫という配役なのだろうけど、力の抜けかたが絶妙でした。美人らしくツンとした態度と、けだるそうに動くさまとか。パフォーマンスとしては、このふたりの女優さんよりかは、他のキャスト(ダンスやパフォーマンスを主としているであろう出演者たち)のほうがキレもあるし見栄えもする。けれど、動きの軽やかさ。パフォーミングのよさというより、もっと演技的な性格づけというか、役者としての個性というか、ふたりの女優さんのほうが見応えがありました。

古典は、やはり面白い発見があって、かぐや姫にアプローチをかける帝が登場したとき、ちょっと緊迫した音楽が流れていて、怖い感じがあった。なんでこんなふうにしたのか。竹取物語のなかのこのくだりを、あまりちゃんと考えたことがなかったのですが、そういえば帝はどういう態度でかぐや姫に迫ったのだろう。天子らしく、紳士的にアプローチをかけただろうか。権力にモノを言わしたりはなかったか。さりとて、迫られるほうとしてはその権力が脅威に思えることはなかっただろうか。求婚されることの悦びは微塵も感じていなかっただろうか。同じようにフられたとしても、無理難題ふっかけられボロボロになった貴族たちとは、あつかいが違うよう思えるし(権力の差かもしれないけれど)、はたしてかぐや姫も帝に対して、はて、どう思っていたのか? そして、日本の一番の権力者、帝を結局は拒む。ツンとした仕草からは、うーん、帝よりも月のほうがエラいから肘鉄した? 罪を冒して流されてきた地上なのだから、帝も所詮流刑地の王に過ぎないよね。もしかして、「竹取物語」は反朝廷思想の人が権力に皮肉を込めて考えた話だったりして……とか思ったりもして。

かわいいコンビニ店員 飯田さん『手の平』

2018のMITAKA “NEXT”をコンプリート。飯田さん(略した)は、もう何度目かの観劇で、最初は短編上演を見て、長編、2作同時上演、そして今回の長編。

劇団の紹介にも書かれているのですが、作品の長さによって雰囲気がガラリと変わります。弱いもののヒネクレとか、社会への叫びとかが強烈であった記憶があるのですが……今回も、社会に対する無力感みたいなところが描かれ、テーマ的には共通しているなと思えるところはあったけれど、なんというか、うーん、キレイすぎる。そして幸せすぎる。僻み根性丸だしの作品とかを見ている私としては、飯田さんには、もっと変化球、もしくは隠し玉をおり混ぜてもらいたかったかな。これだけ力量のあるストレートは、ちょっぴり優等性すぎるかな。大リーグ養成ギブスをつけて鍛えたなら、消える魔球も見てみたいのだ(意味不明)。

星のホールで和風のセットを見るのは、もう既視感。小松台東とか、ちょっと前に見たぱぷりかも畳だったかな。縁の下の隙間がやたらキレイで(そういえば私の実家の縁の下は、工具とかゴミとかが詰まっていた)、ここをサッとネコでも駆け抜けたら痛快だろうなー、なんてどうでもいいことを考えたりしていました。でも、昔ながらの光景を懐かしむような気持ちになるのはある意味的を射ていたというかで、家族の家が立ち退きに迫られるという話。そして、その立ち退きを進めているのが、役所に勤めているその家の長男。立ち退きに頑固に反対する父親との対立……

状況的には苦しいものの、周りは愛で満ち溢れている。特に長男の、妊娠している奥さん。ほがらかであかるくて、こんなヒトと巡り会えただけで幸福という非の打ち所の無さ。長男だって、実直すぎるほど実直。困難に立ち向かう勇気と強さを持っていて、そしてその長男を育てた家族も、さもありなん、愛情に満ち満ちていて……うーん、根性がネジ曲がったオジサンとしては、眩しすぎるわよ。愛で世界を救ってくれるなと、悪いどんでん返しを期待してしまうサモシイ根性。立ち退きの緊迫な場面が続くのですが、もうこの愛情に満ち溢れた家族と、実直な長男の姿を見てしまうと、結果がどういう方向に転がっても、幸せな結末しかこないじゃん、という逆に詰んだ状態になってしまいました。あのかっこいい息子を持ったという事実で、もう、立ち退いて失う以上のものをこの家族は得ている。

過去作『位置について』の苦い後味からすると、ちょっとスッキリしすぎ感。飯田さんの中に強烈な毒、というか、毒の調合間違ったから、ええい、素手で殴ってやれ的な痛快さが見え隠れしているところが好きなのだが、今回ちょっぴり毒の味は薄めだったかな。まあ、完全に好みの問題。血圧上がっていいから塩分塩分。

劇団員、辻さんは精力的に活動していて、劇場で非常によく見る俳優さん。今回のような、実直で苦悩する役にどハマりする。家族のしがらみにもがく姿とかもハマっている感じがする。あと、こんなカッコイイ役を客演でなく劇団員に担わせるあたり、飯田さんに好感が持てました。

辻さんと共演している姿をよく見ている気がするカムヰヤッセンの工藤さん。彼女のいるおかげで、笑いも起こるし、雰囲気が一気に柔らかくなる場面も。作りてとしても頼もしい存在でしょう。MUの青木さん、彼も初めてみた時からなんだか気になる役者さんでしたが、いままでの中で一番ハマり役だったように見えた。ヒールの役とか、いい感じのイヤみっぽさがなんともよかった(本人からしたら不本意かしら?)。

あと、タイトルのつけかたが、いぶし銀でステキ。

マレビトの会『福島を上演する』

フェスティバルトーキョー。今年見た舞台のアフタートークで、2016年に上演された『福島を上演する』の話が何度か出ました(そのときは未見)。気になっていたので、フェスティバルトーキョー18で上演されると知って、発売日にすぐチケットを購入。演目は2016と全部違うようなので、再演ではないです。

マレビトの会は初めてなんだけど、ちょっとだけ手法というか、スタイルみたいなのは知っていて、果たして自分に合うかな?というのと、題名からして、重ためのがくるんじゃないかと構えていた。いや、まったく杞憂。

内容は全16作。福島を舞台に描いた戯曲を1日4作オムニバスで上演するというもの。震災や原発がくるかもと思っていたけど、私が見た作品で、震災を思わせるシーンはとくになかった(そういえばフクシマじゃなくて福島と書いてある)。最初の話は、以前行ったことがある飯盛山の話だったので、景色もすぐに想像でき、入り込みやすかったところもある。そして、毎日違うものが上演されるとわかっていたら、もう何日かチケット取っておけばよかったと後悔。

「鳥公園のアタマの中」展でマレビトの会のリーディング公演を見たのですが、そのときの感じが、うーん、ちょっと私には肌に合わないかも……でした。まあ、その公演自体がかなり特殊で、稽古はその日1日のみ、台本を手にしてのリーディング、場所が劇場ではないアトリエイースト、と、捕らえきれないところが多かったのだと思います。で、見事に印象がひっくり返った。というか、また、他では感じたことのない感覚がの公演でした。

広めの中劇場でセットはなにもなし(あっても椅子くらい)。俳優さんも普段着のような格好(2番目の話のなかで、男女がそれぞれ赤と緑で補色の服を着ていたのは、意図がありそうだと感じたのですが)。台詞はまるで棒読みのように淡々と流れ、所作は、マイムであるものの、忠実ではなく、モノを持ち上げても力が入っているようにはみえない、なにをしているかが理解できるくらいの軽い動き。広い空間を移動しながら、流れながら展開していく。話も平坦ではある。

映像で見たら退屈に思うかもしれない。劇場の奥行きがないと、味わいにくい作品。スキキライもあるし、静かすぎて寝ちゃう人もいると思う。でも、この淡々と進むことが、まるで本を読んでいるようでした。活字を追いながら、頭の中で想い描く。その読書で起こる体験が、目の前で起こっている。セリフ、所作、セリフと規則正しく流れることで、見る手を受動的にしない、想像力を必要とさせるし、役者さんが、表情や声色を誇張しないがため、その時の人物の心の動きは、見る手が捉えるしかないのです。

古典小説を漫画で読む的な本がよく出ています。あれは、わかりやすいと思うんですが、文字だけのものに絵をつけることで、たとえば強い語調の場面に、怒った顔を描かれてしまうと、その顔で怒っている姿しか想像できなくなってしまう(それもその漫画家の思い描いたキャラクターの表情に限定されてしまう)。活字で読むならば、その時々の表情がどんなだかは読者の想像に委ねられるわけで、怒っているという表現でも、激昂していうのか、そんなには怒ってないのか、表面では怒っているけど実は……の、読み手の感じかたで、いくつもの思い描きかたができる。マレビトの会の手法を見て、舞台上で見てはいるけれど、かれらの本当の表情や心理は、見る側の想像力に委ねられているのではないかと思いました。まるで本を読むような作品の共有のしかた。そして、大きな抑揚がない中でも、すっと個性を出してくる俳優さん。なかなか技量が試されるのではないかと思います。

ひとつひとつ思うところがたくさんあるのですが、4作書き出すとキリがないので、ざっくり。この日見た中で一番好きなのはアンモナイトセンターかな。滝の話も、興味深い。女性の感性のありかたとか。

PityChan『世光ちゃん。ぎらぎら?』

うーむ。完全に間というか、あれだろうか、シンクロニシティ。劇がある程度進行したところでそれをぶっ壊し、これがつくられた「劇」であることにするメタなやつ。なかないで、毒きのこちゃんで、ぶっ壊すやつを続けて見ていたので、うーむ、ちょっと満腹感が。

まずは劇をやっていた部分。自分が老いてきたせいか、若い人の考えかたと自分がどれだけズレてきたのかを、よく考えます。若い人の作品になかに、自己肯定の低さや、社会に対する不安みたいなところを感じることがよくあります。この話にも自己肯定感についての描きかた、SNSでの仮想現実との向き合いかたなんて、とてもいきいき描く。デジタルで評価をえることに快感を覚え、現実ではすげー態度が悪いとか、人付き合いの感じの悪さとか、とてもイマドキ。ソトヅラ、ウチワ、そのコロコロ変化する顔。現実でも仕事のときならソトヅラだし、やさしそうでも、おとなしそうでも裏の一面を出してくる。この構成がうまい。仮想現実が現実を超過しそうなところ、現代らしさを抉っている。

で、話が終わった(?)ところで客席から男が乱入(もちろん俳優さん)。この企画のため作っていた架空の俳優さんのツイッター(実際に阿寒運とを作成している)に感化されて会いにきた、その人に会いたいと、出演人に詰め寄る。そこで劇は壊れ、乱入者と俳優陣たちの会話、という入れ子の劇になる。

ストーリーの部分とリンクさせているようでもあり、乱入者と俳優陣たちの会話は演劇について、演劇も仮想であり、現実との折り合いの付けかたなど……議論のようになりながら展開していく。うーむ、タイミング的になんかやはり毒きのこちゃんとの既視感がいろいろと。演劇の中で、演劇の諸事情について語るのを、個人的になんとなく好かないのです。作り手にとって、それが等身大のテーマであることはわかっているけれど。

劇を壊してドタバタしていく……それ自体も劇であろうことを、わりあいドライに理解してしまっていて、それは、たとえばテレビは、演者が頑張っているものの、演出と編集が加わってのモノダネだとわかってしまっている感覚に近い。舞台上は演技であって、ハプニング的な驚きを起こしても、まあそれを見にきてるのだよということなんだよね。あらかじめ作られたハプニングには構えてしまうのです(もしかすると、かきあげ団の伝説の公演『シン・乳呑子』でのマジなハプニングを見てしまったから、それ以上がこないとダメな体になってしまったのかもしれません)。

Pitymanという劇団の別企画がPityChanということらしいです(Pitymanは6月に『ハミング・イン・ウォーター』を観劇)。所属の藤田さんは、惹きつける魅力のある女優さんで注目しています。三井シャーロットさんは、またどこかで会えるのかしら。

余談。いまの若い世代のことを考える。「今の若いもんは……」みたいな感覚を私は持っていなくて、むしろ、大変だろうなとか、応援したい気持ちが多い。(自分が、自分の世代のパラダイムに適合しているかわからないけれど)自分の世代より、ずっと若い人は頑張ってると思う。ちょっと感じることは、性的に成熟しているものを描くものの、直面する悩みは子供っぽく感じる……反面、私の好景気もおぼろげに覚えていて、大人になったタイミングで不況に直撃したアラフォーの世代より(不況は続いているものの)現実的な折り合いのつけかたがうまいのではないかと思う。お金を稼ぐことその他の線引きはとてもクレバーに捕らえていると思う。ただ、Pitymanの作品に家族の暗い影を感じるのだが、これも、人間関係が希薄になってきた社会の有り様と関係してるんじゃな可能かと、まあ、半ばこじつけに考えたりするのです。

さらに余談ですが、「銭湯で動物園をやりたい」と言い出す人に、「そんなの無理って」いう展開があるんだけど、カピバラならいけるんじゃないかな……とずっと頭をよぎっていました。カバとかも……

ロロ いつ高シリーズvol.7『本がまくらじゃ冬眠できない』

ハズレなし、いつ高シリーズ。人に勧めやすいし、小劇場に行ったことない人にも、とっつきやすいと思う。小劇場の入門としてもいい(実際はかなり高度なことをしている作品だと思いますが)。いうことなく面白い。なので、趣味というか、個人的なアレコレのみ書きます。

図書室が舞台の話。いきなり脱線しますが、図書館勤務&本屋勤務経験者としては、本に書き込しないでー! ってか、勝手に並び変えないでー! そして、本棚の舞台セットがあると、タイトル見ちゃうよねー。日本国語大辞典があるのはなかなか良きチョイス。諸橋大漢和とかきてくれたらガチだなと思ったのですが。

私は小説をあまり読まないので(本好きだけど文学が好きなわけでないのです。とくに日文はまったくの門外漢)、棚のラインアップには疎かったのですが、ツウな人は、ぜひ、この作品は最全席で見たほうがいいです。棚見て、作者の趣味がわかったりして、たのしめます。

このまえ、平方イコルスンさんの漫画『special』を買って……この作品は学園モノで、なぜかいつもヘルメットをかぶっている女の子や、妙な個性を持った同級生たちとの日常を描いたもので、変な人がいっぱいなんだけど、同級生たちが、それを(気を遣ったり、空気読んんだりしているものの)、変なことを自然と受け止めている。排斥も敬遠もしない。個性として肯定しているさまが快かった。

ロロのいつ高も、妙な人がたくさん出てくる。だけど、彼らの個性も自然と受け止めている。そして紡いでいく関係性。愛し愛されなんだよなあ……いつ高がすがすがしいのはそんなだと思います。

日本人は同調の気運が強いとよく言われます。みな同じリクルートスーツで就活してるさまとか、なにかにつけて横並びであろうとするところに息苦しさを覚える(そして逸脱してしまった私である)。創作は、引っ掛かりがなければならないから、必然的に変わった個性を出さなければならないけれど、だけど、現実でも、みんなそれぞれ変わっているはずなのに、それを引け目に身動き取れなくなってしまうことも多々ある。学生演劇と同じ条件で上演することを前提としているいつ高シリーズだから、まあ、言うまでもないとは思いつつ、若い人に見てほしいなと思う。きっと勇気づけられると思うんですよね(まあ、客層若めですけどね)。

MCR『毒づくも徒然』※4作同時上演

『リフラブレイン』

この題目は、以前、池亀三太さんの演出で上演したバージョンを見たことがありました。大筋は憶えていたのですが、役者さんが変わると、こんなにも印象が違うのかと、びっくり。池亀演出のときは、松本みゆきさんとDULL-COLORED POPの東谷さんが姉弟で主演でした。とても面白くて、MCRの劇団名もこのとき憶えました。たしか、たなか沙織さんも出ていて、その後のMCR公演でも拝見しているので、脚本との相性のよさもあるだろうか、なんて思いました。そして今回の石澤さん、小野さん、両俳優の素晴らしさ。松本さんの綺麗な顔してさらっと怖いこと言うヤツもアレだけど、石澤さんのコミカルな怖さもたまらない。そして借金取りの澤さんのハマりっぷり。

初演は2009らしいので、ほぼ10年前。最近の作品よりキツイ感じがする。これは若さゆえ? トゲトゲしさにスキがない。いや、甘くないというべきか。徹底的にえぐる。こういうことができる人の作品は素晴らしく研ぎ澄まされている。

池亀演出のときに見た脚本(たぶん初演の上演台本が基なのでしょう)と、どれだけ変化があっただろうか。私の記憶は錆びついてるので仔細は比較できないのですが、弟の恋人とのパートがより重厚に掘り下げられていた印象。特に最後のシーンは、池亀演出のときは、姉弟2人だけだったと思う。たしかに、今回弟とその恋人のシーンにココロを捕まれました。姉弟の物語、という所見での印象がずっとあったせいかもしれないのですが、恋人ふたりのやりとりが一番グッときた。血縁以外の愛について、血のつながりのアドバンテージとは違う愛についても、もっと救いを与えたかったのかもしれないなと思いました。冒頭のシーンと構図が変わってしまうのですが私はこの感じがです。

『櫻井さん』

最終日に、4作上演の残りの3作をいっ気に見てきました。というか、この日でよかった! 千秋楽というのも相俟ってか、いつも以上の爆発が見られた。とくにラストのラスト『親展』の俳優陣の出し惜しみしなささ、突拍子もない(劇中でもクレイジーと)役どころばかりなので、やり過ぎじゃないかとすら思ったけど、いやあ、これを見られたのは幸せでした。

というか、主宰の櫻井さん、4作中3作に出るのに、結構重要で、セリフ多い役やってない? 『櫻井さん』も最初は銅像役で、ずっと座ってるのかと思ったのだけど、転換で、セリフのある役に換わる。結構重要な役。バイタリティの凄さに驚いてしまう。

クックロビンを誰が殺したか……冒頭で詩人を目指す若者(無職)が自殺する。かれがなんで死んだのか、その究明の話。これ、すごく怖い。夢を持つことの苦しさ。たしかに無職の彼がどんな偉そうなことを言っても、それはダメダメだし、無職であることで、もう悪なのだ(現社会では)。たとい無職の期間の経験がのちに糧となったとしても、成功しなかったら、そんなことはなんの役にも立たなくて。とくに、執筆、芸術、音楽……俳優さんとかもそうかな、社会に対して、ともすれば役に立たなそうなもの、評価の基準が固定でないものを目指している人には、キツくてみてられないかもしれない。無駄で遠回りのようなことを積み上げるしか手段が無かったりする活動だけど、成功が伴わないと無価値に成りかねない。そして未来はだれにも担保されないわけだし、自分のやっていることを説明しろといわれても、できない。たしかに死んでいった彼のだらしなさは肯定できないかもしれないけど……(私は、彼を否定できないし、同じようなことやってきたし)。

追い込んで、追い込んだ先を描くMCRの怖さが爆発。そして、ここに登場している人物の怖さ。人間はイイヒトであっても、同時に悪を内包しているということ。一見正しいことをしていても、立場を変えると悪に見えるし、基本はちゃんとしていても、部分的に(金銭的感覚や公共マナー)欠落している人はままいる。不正も許容してしまう。神でもなければ完璧でない。じゃあ、だれが悪いの?と考えてると……残るのものは苦さしかなくて。

『あの世界』

夢を見る……というよりは、もうちょっと大人になって、ある程度安定してから、続けていくことの意味とか、この先どうなっていくべきなのか、とかいう話。

プロレスを題材にしているので、多少なりともプロレスの特性みたいなものを知っていたほうがいい気がする。女性客ポカンとしてなかっただろうか? 私はWWEとかスキだし、ある程度はプロレス技もわかるので問題は無し。

プロレスがガチかどうかなんてのは、長年の話題になっているし、ブックとリアルのどちらが上か下かとか、喧々諤々キリがない。プロレスというものは、それだけでドラマチックなものだといえる。屈強なレスラーがぶつかり合う以上のものがたくさん裏に含まれていて、いつまでも人々を魅了してやまない。

答えが出ないものは演劇と相性がいい。まさに試合が始まろうとしている控室で、ガチで戦うのかプロレス(ブック)でいくのか、議論しだすレスラーとセコンド。セコンドは自分のなし得なかった夢を託したいし、レスラーは夢以上に自分の立場、生活に囚われている。「夢を追うのことが美しく正しい」というありふれた精神論では片づけられない。哲学の問答のような対話が繰り広げられていく。このセリフの応酬はまさに格闘技で、ガチな対話劇。見応えがある。

そして、この俳優陣。登場人物4人のうち3人がシンクロ少女の俳優。女性役が名嘉さんなら全員シンクロじゃないか。それも、あったら面白そうだけどなあ。

###『親展』

見た日が千秋楽だからか、なんだか俳優陣がすごくハジけていた。笑いをかっさらっていく姿勢。ともすれば、話の内容が頭に入ってこないくらいのインパクトだった。俳優さんの個性を見せつけられた思いがする。この回を見られたのは幸せです。

だれもかれもすごかったんだけど、加藤美佐江さん、彼女のセリフはほぼ絶叫に近いものが多かったのですが、これがすさまじい破壊力、全部爆笑をさらっていってました。そういえばダルカラの福島三部作でも、若い学生が恋人に愛を語らう場面で、ひたすら絶叫するシーンがあったのですが、これも弾けんばかりの若さと情熱を記号化するのに、非常に素晴らしかったのを思い出しました。美佐江さんのパッションを表現するのに、最高のやりかただと思いました。(やたらと絶叫する作品はあまりスキじゃないんですけれど)こういう演出・演じかたもあるのかと感心です。あと、劇団普通の石黒さん。この人の底知れなさは、見るたびどんどんブラックホール化していくいくんですけど、今回の役の恐怖さ、クレイジーさは鳥肌もの。三澤さきさん、サバサバした役柄がとても気持ちよくて、パキッとしていたセリフの歯切れの良さ。ホントに愛嬌があって、若々しい役がハマる。

とても演劇的な作品だと思いました。言葉がどれだけ意味以上の気持ちを伝えることができるか、あるいは、言葉ががなくとも通じ合えるのか。言葉を言い換えたら伝わりかたは変わる? 言葉と限界に挑んでいる、演劇としてあたりまえの題材だけど、逆に言えばもっとも困難なものにシンプルに立ち向かった作品だと思います。耳が聞こえなくなる……たしか、ほかのMCRの作品に、不治の病で目も耳も聞こえなくなっていくのがあったけれど、言葉や身体のありようにどこまで精神が伴うのか。キャリアのある劇団だけど、純粋な挑戦を続けているなと思いました。

しかし、4作上演って大丈夫なのかと思ったけれど、クオリティが落ちなくて、はあ、まったく無双状態でした。

ワワフラミンゴ『ハートのふゆ合戦』

名前をよく聞くのに、見たことがなかった劇団シリーズ。ワワフラミンゴ。うむー、さすがというか、今までなぜ見る機会がなかったのか、悔やむやーつでした。とやかくいうことなどなく面白かった。世界観はやさしいルイス・キャロルというか、綿菓子か、マカロンのような不思議の国かな、なんて印象を抱きましたが、この表現が当たっているかどうか。ともかく、感じたことをつれづれと書きます。

車があんまり好きじゃないんです。その理由はボディが綺麗すぎるからなのではないかなと思います。流線で好きのないデザイン。白黒、赤、グレー、シルバー、高級かつ無難なラインナップ。無難すぎる姿が面白くなくて(最近はスマホにも同じようなことを感じる)。商品化する過程でザラツキが消えてしまう。一見ノイズのように見えるものは、商品として考えた時に排除、あるいは淘汰して均してしまわなければならない。大衆の公約数というか。

ワワフラミンゴ。完成度がどうとかこうとかじゃないけど、そのザラツキみたいなものが頭をよぎりました。わかりやすくて大衆的であろうとすれば、いかにも均されてしまいそうな部分にあるおもしろさの集合。見落とされがちなオモシロイを掬って、ならべて飾ってくれているかのよう。ひとつひとつは小さい粒なんだけれど、ちょっと変わったカタチをしていて、なんだかすてきな感触。ここちよいザラツキ。猫のザラッとした舌でべろっとなめられた感じ(?)。

こうであるべきとか、こういうものだろうみたいな思い込みを、あさはかだと思わせてくれる。確実に会場にいるみんなが笑顔だし、しあわせな空間。ああ、平和ってこういうことだなあとか思ってしまいました。

ロロのいつ高シリーズ(at 下北沢演劇映画祭(仮)2018)

下北沢演劇映画祭で、ロロのいつ高シリーズを3作、『すれ違う、渡り廊下の距離って』『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』『いつだって窓際でぼくたち』をハシゴしました。これで見逃していたぶん全部見ました。

だれしもが愛し愛され……はみ出しているのが個性。それを受容していける、かれらの関係性に心温まる。そして、むかしの自分もそうだったらなと憧れ。普通との逸脱を恐れたり、悪ければ孤立してしまったり。特徴がある人間のほうが立体的……いいよね。全体主義なんて面白くない。

ロロの描くやさしさ、やわらかさも相俟って、居心地のいい時間でした。ラジオネタとか、いい感じで突いてくるのもツボね。

城山羊の会『埋める女』

千秋楽のザ・スズナリ満杯。

相変わらずのエロと暴力的なシーンがあって、冒頭に出てきた少女役のスカートの丈の短さがに目がいってしまって……オトコってしょーもないなあ……なんて恥じていたのだけど、話の中でも意味のあるスカート丈でした。内容も、男の情けないところが多々出てきて(女もかなあ)、どうにも生き物のサガを感じてしまうのでした。

城山羊の会の中ではちょっと難しかったなと思います。それぞれの人物がエピソードを持っていて、それが独白だったり、暴かれていったり、謎解きのように解かれていったり。話の冒頭と最後がつながる……みたいな環の構造は演劇でよく見るんだけど、人物関係も環のように、じつは昔に関係性あることがわかっていったり、え? それってまずくない? みたいな、それぞれの人物の過去がつながっていく。なんの脈役もなく突然現れる人物(こういう不可思議なシチュエーションがいつもうまい)、だけど実は旧知であったり、なにかしらの関係性があらわになって、環のようにつながっていく。まるで知恵の輪のように絡まっていて(じつはスッパリ解決できそう?みたいに感じさせるところとか、イライラして全然解けないところとかもまるで知恵の輪のようで)なんだか複雑。

セリフの中に「客席」の混在を匂わせたりもして、メタ的な構造も。あとから登場する人物が、劇の冒頭の部分がYouTubeあがっていると言って、スマホで動画を見せてきたり。動画はだれが撮ったの?とか、頭がこんがらがるところもあった。そういう意味でちょっと難しく思えた。

そして、だれもが嘘をついてる可能性を匂わせながら物語が進行する。うーん、客はみんな関係性を解決できているのかな。「あきらかに嘘」と感じさせる喋りかたをするところもあるし、「いやいや、そんなことあり得ないでしょ」と思わせる理屈を振りかざしてきたり。この人が本当のことを話していると断定すれば辻褄は合いそうな人はいるけれど、それぞれに裏の面、表面上は繕っている暴力性だったり、性に対するだらしなさみたいなものが透けて見えてきて、本当に信頼に足る人物であるのか、疑わしさを覚えてしまう(こういう、嘘を言ってるかもしれないみたいな演技は、上演台本を読んでいても読み解けないから、実際に舞台を見ないとわからないですよね)。信頼関係のありようで、人間関係が変わる……のは現実でも同じで、苦々しいですよね。

今回は、メタなところを、積極的に取り入れていたように思えました。客がいることを、容認しているかのような舞台の登場人物たち。埋める「穴」はジッパーで開閉するようになっていて、作りものの「穴」であることを笑いにしていた。全体的に実験をしているような作品でした。

serial number「アトムが来た日」

今まで、原子力とか原発が舞台中で出てきても、情緒的に語られることが多かったように思えたのですが、2018になって、DULL-COLORED POPと同じく、取材に基づいて練られた重厚な作品が出てきたなと思いました。見ておいてよかったですし、いやあ、これ、スズナリの劇場の客席の人数だけじゃぜんぜん足りない。いまのエネルギー問題、未来の問題、みんな知っておかなければならないよ。

痛烈なのは「多分このままだとそうなっちゃうだろうな……」という現実をきっちり突きつけているところ。予想されている南海トラフ、なお続く原子力のエネルギー問題。アメリカとの関係を匂わすところも。このままじゃまずくない?と、薄々感じている不安が起こった2040年の未来。劇中で示した資源量のデータなどは、いまのデータと推測のデータでしょう。将来、技術が飛躍的に進歩してエネルギー問題などあっさり解決しているかもしれない。だけど、そんな考えは楽観的だし、みな経済と目先の生活にとらわれ、先送りにされてきた問題。そして、またも再開されようとする原発の再開に立ち向かう科学者たち……

劇中に登場する政府関係者の態度が実に場当たり的で、まさに今の外国人労働者の問題や、基地問題……当て書きのようであり、変わらない体質を描いているのかもしれない。が、それは、もしかすると、日本人、いや人間の体質なのかもしれない。現在の生活にとらわれ将来を後回しにする。あるいは世の中が複雑になりすぎて、抜本的な解決などできなくなってしまったのか。

エネルギーの問題を、現代人は無視できないし、無関心でいることもできなくなるでしょう。こういった、見た人の考える幅が広がるような作品は大切だと思います。そういう意味でも、たくさんの人が見たほうがいいと思う。

まったくの余談ですが、私、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」が好きなんですが、原子力の問題は、まさにフランケンシュタインの怪物のような感じがします。一度動き出したら戻れない……核兵器とかも同じですね。それで、最近メアリ・シェリーを描いた映画が公開になりました。2月に『Bloody Poetry』という、メアリ・シェリーと周辺の人々を描いた舞台もあったので興味津々です。

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